2007/07/30

Vacation (All I ever wanted)

いつもお寄りいただきありがとうございます。さて、このたび、思い切って1週間ほど夏休みをいただくことにしました。その前にエントリーをしようとおもっていたのですが、入力用の携帯電話を家において出社してしまいました(...)。

ハングリーさを取り戻して、遅くとも8月6日には戻ってまいります。

どうぞよろしくお願いいたします。

<追伸>
日本の選挙結果を報ずる米国の報道をみていると、自分の国の事情と重ね合わせているような気がしてなりません。なにせ、「信念」とイデオロギーを重視した政治を行おうとしたリーダーが、庶民の経済的な心配事がわかっていないとして、選挙で手痛い洗礼を受けたわけですから。ついでにいえば、政治家のスキャンダルが連発したところも似ています。

同じアナロジーで考えると、日本の有権者も、リーダーの信念の良し悪しはともかく、そもそも政府を運営する「能力」に疑問を抱いているように思えます。不謹慎を承知でいえば、年金番号の記録問題は、ハリケーン・カトリーナーであり、ウォルター・リード陸軍病院です。

日本では、「年金番号問題は些細なこと」「選挙は国の大きな方向性を問うべきもの」といった議論があります。それはそれでもっともですが、同時に、総理大臣というのは行政府のリーダーだという事実も忘れてはなりません。そのもっともプライマリーな仕事は、行政府をきちんと運営すること。リーダーにその責任がないのであれば、誰にも責任などありはしません。

「有権者の声を聞く」ことは、ともすれば「質の低い政治」だと思われがちです。確かにその危険性はあるでしょう。しかし、正しいと思うことをわき目も振らずに実行すればよいのであれば、それは民主主義とはいえません。目指すべき「信念」を、有権者のニーズとどうマッチさせていくのか。どうやって説明していくのか。それこそが政治家に求められている「知恵」だと思います。米国で、自由貿易を守るための政治的な知恵が求められているのと同じです。

米国政治を象徴する言葉として、All Politics is Localがあります。これは、単に「地元利益だけを考えた政治をしろ」というだけの格言ではありません。「国の大事といえども、地元にきちんと説明できることが大切だ」という意味があるのではないでしょうか。米国というのはそういう国です。

さて、皮肉なことに、リーダーの不人気が同じ党の議員を直撃したのも日米で共通しています。今度は、次の選挙をにらんで議員達がリーダーとの距離感をどう取るのかが鍵になる。

妙なところで日米がリンクしているように思えてしまいます。

2007/07/28

With or Without You:ヒラリーとネット・ルーツの心地よい距離感

政治の世界では、全てを味方につけるのは不可能だ。そうであれば、死活的な敵を作らないようにするのが、巧みな戦略というものである。ヒラリーのネット・ルーツ対策がその典型だ(Wilson, Reid, "Clinton Makes Netroot Friends", Real Clear Politics, July 26, 2007)。

ヒラリーにとって、ネット・ルーツは潜在的な脅威である。そもそもヒラリーは典型的なエスタブリッシュメントの候補。そのこと自体が、反抗体質のあるネット・ルーツとは相容れない。さらに、イラクの問題がある。リーバーマンの上院予備選に明らかだったように、ネット・ルーツが盛り上がるのは反戦の動きである。下手をすればヒラリーは、ネットの世界で手痛い反対運動に直面していたかもしれない。そうなればヒラリーには、ますます「古い」候補という色彩が染み付いてしまっただろう。

しかし、今のところネット・ルーツはヒラリーに拒否感は示していない。確かに、エドワーズやオバマに比べれば、ネット・ルーツからの支持は極めて低い。それでも、熾烈な反ヒラリー運動が起こっていないだけでも、陣営にとっては成功だろう。

ヒラリーのネット・ルーツ対策は、敢えて意見の相違を埋めようとするのではなく、投票制度の改革など、むしろ共闘出来る部分を強調するものだという。また、ブッシュという「共通の敵」がいるという指摘も忘れない。さらに、陣営のスポークス・マンがテレビでネット・ルーツを擁護する発言をしたり、ネット・ルーツに人気のある人間に支持表明させるなど、ヒラリー陣営らしいそつのないネット・ルーツ対策も講じられている。

今のところヒラリーは、ネット・ルーツの支持を得るために、政策の内容を大きくシフトさせているわけではない。ヒラリー陣営にとって大切なのは反対させないことであって、支持を得ることではないからだ。何しろ、本選挙を睨めば、あまりに政策をネット・ルーツ寄りに動かすのは得策ではない。ヒラリーの強みはあくまでも「経験と強さ」に裏付けられた着実さであって、過激なスタンスは似合わない。

むしろ気になるのは、ヒラリーが「ネット・ルーツの候補」になった時かもしれない。オバマとネット・ルーツには微妙な距離感がある。オバマに猛追されてきた時に、ヒラリー陣営がネット・ルーツに近付こうとする可能性は捨て切れない。ヒラリーにとっては勝利への意外な秘策になるのかも知れないが、その一方で、フォースのダークサイドに踏み込むようなリスクも存在するように思われてならない。

2007/07/27

Viva ! Election...Whatever it is...

あっという間に参院選の投票日が近づいてきた。延々と盛り上がり続ける米国の大統領選挙とは随分な違いである。本選挙まで1年以上あるうちから選挙活動が過熱しているのもさることながら、各党の候補者が決まるのも来年の夏以降になるかも知れないというのだから驚きだ(Ornstein, Norman, "An '08 free-for-all", Los Angels Times, July 26, 2007)。理由は予備選日程の前倒しにある。何やら逆説的だが、理屈は次のようになる。

予備選の投票は各州ごとに行われる。今回の大統領選挙の特徴は、各州が競って予備選の日程を早めていることだ。候補者が決まってから予備選をやったのでは、候補者にそっぽを向かれる。影響力を行使するには、少しでも早い方がいいという計算だ。

その結果出現したのが、Super Duper Tuesdayである。現時点のスケジュールによれば、アイオワなどの幾つかの州が予備選を終えた後に、カリフォルニアを筆頭とする多くの州が、2月5日に一斉に予備選を行なう。そこまでで、候補者を決める代議員の3分の2近くが決まってしまう計算だ。これまでも予備選が集中するSuper Tuesdayというのはあったが、今回はちょっと極端である。

こうしたスケジュールがどの候補者にプラスになるのかは、米国でも大きな議論になっているところ。その内の一つのシナリオが、予備選では候補者が決まらず、その決定が夏の党大会に持ち越されるというものである。あまりに沢山の州で一斉に予備選が行われるために、候補者の得票が分散し、指名に必要な代議員数を獲得する候補者が現れない可能性があるからだ。

代議員獲得の方法も、こうしたシナリオを後押しする。かつての予備選は、本選挙と同じように、過半数の票を獲得した候補者がその州の代議員を全て獲得する方式が少なくなかった。いわゆるウィナー・テイクス・オール方式だ。しかし、最近の予備選では、こうした方式を取る州が減っている。民主党の場合にはウィナー・テイクス・オール方式は廃止されており、得票に比例して代議員を配分する州が多い。共和党でも、州を幾つかの地域に分けて、それぞれについてウィナー・テイクス・オール方式を適用する州が少なくない。そして、当然のことながら、ウィナー・テイクス・オール方式の退潮は、候補者間の差が開きにくくなることを意味する。

候補者指名が党大会に持ち越されたらどうなるのか。党大会では、決戦投票の回数が増えるに連れて、代議員が自由に投票出来る州が増えてくる。合従連衡あり、思わぬ候補者の浮上ありと、高見の見物を決め込む分には、かなり楽しい展開になるかもしれない。

もちろん堪らないのは候補者だ。ただでさえ長い選挙戦が、一層神経質になる。本選挙との関係も微妙である。これまでならば春頃には各党の候補者が決まり、本選挙が事実上スタートした。しかも今回の場合には、党大会の開催が8月末から9月初めとなっており、あろうことか例年より遅い。予備選が泥沼の戦いになれば、本選挙への影響は避けられない。

見るほうにとっては楽しいが、候補者にとっては、なんとも過酷で残酷な戦いである。

2007/07/26

My Generation:オバマと世代交代論

オバマとヒラリーの戦いは「変化」と「経験」の争いの様相を強めている。特にオバマ陣営には、こうした絵柄を「ベビーブーマーからの世代交代」になぞらえる傾向があるようだ。

「変化」と「経験」の構図は、7月23日に行われた討論会でも鮮明だった。この討論会でヒラリーは、「誰が初日から国を率いることが出来るのかが重要だ」と主張した。対するオバマも、「有権者はワシントンの変化を切実に求めている」と譲らなかった(Dodge, Catherine and Kim Chipman, "Clinton Touts Experience as Rivals Duck Confrontation", Bloomberg, July 24, 2007)。

両者の立ち位置は、世論調査にも裏打ちされている。Washington PostとABCが実施した世論調査によれば、強いリーダーシップと経験を重視する人の間では、ヒラリーに対する支持がオバマを30ポイント以上引き離している。しかし、変化を重視する人の場合には、両候補への支持はほとんど同程度である。さらに、「変化」を重視する人は51%にのぼり、「強さ・経験」を重視する人(42%)を上回っている(Langer Gary, "Experience Trumps for Clinton; 'New Direction' Keeps Obama Going", ABC News, July 23, 2007)。オバマにすれば、「変化」での相対的な強みを活かすのが、ヒラリーに迫る近道ということになる。

ところでオバマ陣営は、「変化」のメッセージに「世代」を重ね合わせることがある。有権者は「対立の政治」に飽き飽きしている。これから脱却するには、ベビーブーマーからの世代交代が必要だという考え方だ(Broder, John M., "Shushing the Baby Boomers", New York Times, January 21, 2007)。

ベビーブーマーは、反戦や貧困・性の問題など、自らが学生時代に争っていた論点を、そのままワシントンに持って来てしまった。実際に、党派対立が厳しくなったのは、クリントンとブッシュという二人のベビーブーマー世代の大統領の時代である。だから、対立が染み込んだベビーブーマー世代には、新しい政治は始められない。61年生まれのオバマは、ぎりぎりベビーブーマー世代の最後にかかっているが、対立の時代にはまだ若すぎた。対立を超えられるのは、オバマだけなのである。

ベビーブーマー世代は18年。クリントンとブッシュで16年だから、そろそろ潮時だという議論も、あながち荒唐無稽という訳でもない。実際にベビーブーマー世代のなかには、自分達の世代は政治の世界ではろくなことをしてこなかったので、そろそろ退場してしかるべきだという意見もあるようだ。

一方でそんなに単純化できない要素もある。例えば経済政策の部分などでは、クリントンが中道寄りの政策運営を行なったのに対して、ギングリッチ以降に政治に関わり始めたために、対立に負けてきた記憶しかない新しい世代の方が、対立の政治を好んでいるという見方もある。その典型がネット・ルーツである。

何よりも世代交代論の機微なところは、ベビーブーマー世代が有権者の大きな部分を占めているという事実である。自ら後進に道を譲るような度量の広さ(?)に期待するのか。それとも敢えて刺激しないようにするのか。一つの考え所ではあるだろう。

2007/07/24

Hard Habit to Break:格差問題の「政治」と「真実」

グローバリゼーションの弊害や、中間層の暮らし向きといった、いわゆる「格差問題」に連なる論点が、大統領選挙の焦点になってきている。攻勢に出ているのは民主党、それもポピュリスト的な勢力だが、その議論には現実からの乖離が大きくなっている側面がある。保守派の論客にして、このページの常連でもあるデビッド・ブルックスが、9つの実例を上げて解説している(Brooks, David, "A Reality-Based Economy", New York Times, July 24, 2007)。

1.平均賃金は景気循環に遅れてはいるが、最近では急速に上昇している。
2.最下層の収入も増えている。
3.所得の不安定さは大きくなっていない。
4.最近の格差の拡大は、グローバリゼーションのせいというよりも、教育やハード・ワークが評価されていることが原因だ。
5.企業は生産性の高い社員を評価するのが上手くなっており、成果主義の普及が格差の拡大につながっている側面がある。
6.高所得層の労働時間が相対的に長くなっているのも、格差の一因である。
7.稼いでいるのは、企業経営者というよりは、ヘッジ・ファンドのマネージャー。社会がメガ・リッチを生み出し易くなっているというよりも、巨額の資本を少数のメガ・リッチが動かしているのが現実。
8.CEOの給与が高騰しているのは、企業のサイズが大きくなっているからだ。
9.米国経済は素晴らしく良い状況にある。

政治的な現実を考えれば、今の米国においては、有権者の不安に応える政策が必要だ。しかし、それはあくまでも有害な政策運営に追い込まれないようにするための回避行動である。その時の政治状況で許される「よりまし」な政策にたどり着くには、現実との距離を見据えることが不可欠である。なかには統計のマジックのような議論もあり、政治の舞台で消化するのが難しかったりもするのだが、だからといって煽動的な議論に頼っていては、本末転倒である。

同時に、経済的な事実と、政治的な議論の境目を見つめる努力も欠かせない。統計というのは怖いもので、どんな解釈が出来る数字でも、作って作れないものはほとんどない。ブルックスの議論にしても、ほとんどコンセンサスになっているものもあれば、統計の解釈や、依拠する信念によっては議論が分かれる指摘もある。矛盾するようだが、政策の舞台では、事実は得てして相対的なものである。数字を使うには覚悟がいる。

それにしても、このページだったら、それぞれの項目だけで一つのエントリーになるものを、良くもここまでまとめてくれたものである。実際に取り上げていたテーマもあれば、準備していたものもある。まあ、挫けずにボチボチと取り上げて行くことにしよう。

2007/07/23

Never Ending Campaignとプリンスの底力

23日の夜(日本時間では24日の朝)に、サウス・カロライナで民主党の大統領選挙候補者による討論会が行われる。この討論会は、二つの意味で「初物」の討論会である。

第一の「初物」は、インターネットを通じて募集した、有権者の自作映像による質問が使われる点である(Seelye, Katharine Q., "Debates to Connect Candidates and Voters Online", New York Times, July 23, 2007)。この討論会はCNNとYouTubeの共催。中には使われる映像の選択権を主催者側が持っている点に不満を示す向きもある。本来ならば、ネット上の人気投票で決めるべきだというわけである。それにしても、新しい試みなのは間違いない。

もっとも、自分が驚かされたのは、もう一つの「初物」である。何と今回の討論会は、民主党では今選挙初めての討論会だというのである(Kornblut, Anne E., "Officially the First, Democrats' Debate Feels Like Anything But", Washington Post, July 23, 2007)。

だってこれまでも散々討論会をやってきてるじゃないか。そう思われる方も多いだろう。かくいう自分もその一人であった。しかし、討論会「のようなもの」は数あれど、民主党の全国委員会が認知した公式の討論会は6回しかない。今回の討論会は、その栄えある第一回なのである。

そうはいっても、民主党の候補者には、早くも「討論会疲れ」の傾向があるようだ。Washington Postによれば、候補者の悩みの種は、討論会自体というよりも、これに関わるロジスティクスだという。論点の予習やリハーサルはもちろんのこと、全米各地で実施される討論会に物理的に出向くだけでも大変な負担である。どの候補者も、キャンペーンは自らの戦略に則って運営したいもの。誰かにどこかに来いと指図されるのは真っ平御免というわけだ。

しかし民主党の候補者には特有の悩みがある。民主党は様々な利益団体に支えられている。数々の討論会は、こうした利益団体が主催するケースが少なくない。出席を断ろうものなら、その利益団体との関係が悪化しかねない。

今回の選挙戦は、ただでさえ異例の長期戦である。度重なる討論会によって、各陣営の体力がますます問われそうだ。

そんな時に目についたのが、プリンスの新譜に関する話題である(Pareles, Jon, "The Once and Future Prince", New York Times, July 22, 2007)。新作Planet Earthは、英国で新聞の折り込みとして配付され、大きな話題を呼んだ。今回に限らず、最近のプリンスは独自の活動路線で話題を呼んでいる。ネットの時代を迎えて、多くのアーティストは楽曲の希少性を保とうと四苦八苦している。しかしプリンスは、出来るだけたくさんの作品を公開し続けようとしてきた。セールスの観点からリリースにインターバルを置こうとするレコード会社には、公然と反旗を翻してきたほどである。

プリンスにはもちろん勝算がある。作り出し続けてさえいれば、人は必ずついてくる。より現実的に言えば、コンサートなどの他の収入源にもプラスの影響が見込める。実際に最近のプリンスは、少人数の観客を前にした高額のコンサートでも成功を納めている。大手電話会社のCMに曲が使われるかと思えば、スーパーボールでも演奏し、香水まで売り出す。これだけのバイタリティーと先進さが、プリンスが第一線に戻って来られた原動力である。同時に、これだけの作品を産みだし続けられる才能にも感服せざるを得ない。

プリンスの新作は、久し振りに80年代風のアクセスしやすい内容に仕上がっている。お疲れ気味の候補者の皆さんも、それが天職だと思うのであれば、天才の一作を聴いて気合いを入れ直してもらいたいものである。

かくいう自分も、「書いてさえいれば」の一念でこのページを続けている。惜しむらくは、彼我の才能の違いではあるが…

2007/07/22

Emotional Rescue ?:民主党が頼る「新しい戦略」

最近の米国、特に民主党陣営では、「理屈にこだわっていても選挙には勝てない」という議論が持てはやされているようだ。どうやら、政治に大切なのは情熱なのだそうである(Coher, Patricia, "Counseling Democrats to Go for the Gut", New York Times, July 10, 2007)。

話題になっているのは、Drew WestonのThe Political Brainという本である。この本では、政治的な情報に脳のどの部分が反応するかが、映像を使って分析されているという。その結果は、政治家に関する情報に反応するのは、専ら感情を司る部分であり、理屈を司る部分はほとんど反応を見せなかったというものだった。また、仮に間違った情報であっても、自らが満足出来る内容でありさえすれば、脳のポジティブな感情を司る部分は反応したという。

Westenは、民主党に大切なのは、いかに感情を刺激するような言葉やイメージを活用するかだと主張する。これまでの民主党は、ともすれば理性的な立論で敗北から立ち直ろうとしてきた。しかし、脳の働きを見る限りでは、こうした戦法は不十分だというのが、彼の見立である。

このような「理屈ではない」という「理屈」が持てはやされるのが、何とも民主党らしいところである。背景には、ケリーのベトナム経歴批判のように、理屈というよりもイメージの戦略で共和党にやられてきたというフラストレーションがあるのかもしれない。その意味では、「フレーミング」へのこだわりとも同根だろう。しかし、「正しい情報よりも感情を揺さぶるメッセージが大事」などという議論につながりかねない危うさが感じられるのも事実である。何よりも、脳の働きまで分析してメッセージが発せられているというのは、あまり気持ちの良い話ではない。こうした議論こそが、リベラルの人を見下したインテリ臭い傲慢さとして、一般の国民に受け止められてしまうのではないだろうか。

そんな中で目を引いたのは、クリントン前大統領のコメントである。クリントンは、本の内容を絶賛した上で、なかでも感銘を受けたのは、「知的に不誠実にならなくても」、感情に訴えかけられるという議論だったと述べている。

オバマと比較すれば、どうしてもヒラリーは、脳の理屈を司る部分に働きかける候補者ということになる。その政治的な「ブレーン」だけに、何とも含蓄のある言葉である。

一方でクリントンは、ヒラリーのために、本のポイントに下線を引いてあげたという。クリントン本人にしてみれば、「こんなことは、わざわざ脳を分析しなくても分かっている」というところかもしれないが、やはり気になるものは気になるようである。

2007/07/21

Brilliant Disguise:生産性と賃金の乖離

グローバリゼーションや格差、そして中間層の問題を取り上げる際に、いつも悩まされるのが、導入の部分である。「1970年代以降の米国では、生産性と賃金の伸びが乖離している」。中間層の苦境を訴える人達は、必ずといって良いほど、こういう話から説き起こす。ところが、我が尊敬するサンフランシスコ連銀のジャネット・イエレンは、両者は概ね同じように伸びていると指摘する。

一体どっちなのか?そして、何が問題なのか?

どうやらその答えは、統計の解釈によるところが大きいらしい。ハーバード大学のロバート・ローレンスは、1981~2006年の期間について、ブルー・カラーの賃金上昇率と民間部門における生産性の乖離の要因を分解している(Lawrence, Robert Z., Slow Real Wage Growth and US Income Inequality, June 2007)。これによれば、乖離の37%は数値を実質化する際のデフレーターの問題だという。さらに、25%は医療費などの付加給付の増加、8%はサービス業雇用の比率増加で説明出来る。いわゆる格差の問題につながるのは、全体の3割程度に過ぎないというのが、ローレンスの結論である。ちなみにその内訳は、ブルー・カラーの賃金上昇率の相対的な低さ(狭義の格差)が14%、資本の採り分増加が10%、スーパー・リッチの増加が7%である。

こうした研究結果は、昨今の格差問題やグローバリゼーション批判に端を発した経済政策を巡る議論について、「一体何だったんだ」という疑問を突き付ける。実際に、Clive Crookは、この研究を引き合いにして、世の中のグローバリゼーションへの懸念なるものには、過剰に反応するべきではないと主張する(Crook, Clive, "Why Middle America Needs Free Trade", Financial Times, June 27, 2007)。

しかし、政治的な現実も無視するわけにはいかない。最近の米国では、経済的な根拠がどうであれ、国民の問題意識を軽視していては、保護主義などの有害な政策に追い込まれてしまうという懸念が強い。何といっても、民主主義の国で政策を動かすのは世論なのである。

「有権者は分かっていない」と片付けるのは簡単である。しかし、国民の意識と経済的な議論を折り合わせていく知恵こそが、現実の政策を動かしていく醍醐味である。統計のマジックみたいなのは勘弁してもらいたいところではあるが、その意味では、現在の米国における経済政策論は、とても面白い題材なのである。

2007/07/19

エドワーズが行く:Magical Poverty Tour

エドワーズは、南部諸州を回る「貧困ツアー(正式名称はRoad to One America Tour)」を終えた。票にならないイシューに焦点を当てる戦略は、エドワーズ浮上の切り札になるのだろうか。

今回のツアーは、エドワーズが今回の選挙の中心的なテーマにしている、貧困問題に焦点を当てるのが狙いだという。従ってエドワーズは、通常の選挙活動は一時的に中止して、今回のツアーに臨んでいるとまで主張している。確かに序盤に予備選が行われる州を訪れるわけでもなく、資金集めパーティーも開かれなければ、目立った演説もない(Pooley, Eric, "Can Poverty Define John Edwards?", Time, July 18, 2007)。

それよりも普通でないのは、貧困問題という「票にならない」争点に焦点を当てている点である。貧困層は米国の人口の13%を占める。先進国にしては高い割合だが、中間層の75%とは比較にならない(Simon, Roger, "Edwards risks backing the poor", Politico, July 18, 2007)。しかも貧困層は投票率が低く、政治献金をする余裕もない。エドワーズの戦略が、「勇敢にして大胆なのか、勇敢にして無謀なのかどちらかだ」と評されるのも無理はない(Bacon Jr., Perry, "On Tour to Highlight Poverty, Edwards Tries to Shift Race's Focus", Washington Post, July 17, 2007)。

もちろんエドワーズにも計算はあるだろう。それは、有権者が、選挙の打算よりも信念を持つ問題の解決を優先させる候補者を支持するだろうという思いである。言い換えれば、エドワーズが目指している候補者像こそが、ムーブメント・キャンディデートなのである。2004年の選挙ではコンサルタントに振り回されすぎたと感じたエドワーズは、コンサルタントからのアドバイスを断った上で、自分が信じる貧困問題を今回の選挙のテーマに据えたという(Bai, Matt, "The Poverty Platform", New York Times, June 10, 2007)。ちなみに、エドワーズが不満を持ったコンサルタントというのは、今回もっとも注目されているアドバイザーといわれる、オバマ陣営のデビッド・アクセルロード。そして、エドワーズ陣営で影響力を持ち始めているのが、ディーン陣営を仕切っていたジョー・トリッピである。

エドワーズの戦略の政治的な効果に疑問を呈する向きは少なくない。「400ドルの散髪」「ノースカロライナの豪邸」「ヘッジ・ファンドのアドバイザー」など、エドワーズには貧困とは相容れないイメージが多すぎる。また、今回の選挙に求められているのは、「貧困との戦い」的なポピュリズムではなく、バージニアのウェブ上院議員が主張するような「中間層を救え」というメッセージだという指摘もある。その意味では、2004年のエドワーズのテーマの方が適切だったのかもしれない(Douthat, Ross, "What's The Matter With John Edwards?", Atlantic, July 17, 2007)。

それでも、エドワーズの提起した問題が、単なる戦略ミスで片付けられてしまうのは寂しい気もする。貧困問題に限らず、エドワーズの提案には見るべきものが少なくない。有力候補者の中ではもっともポピュリスト的といわれるエドワーズだが、実際のところはそんなに単純な話でもない。エドワーズは「金持ちを批判したいわけではない」という立場だし、自由貿易にしても、途上国の貧困問題の解決に役立つと評価している。ロバート・ライシュなどは、「エドワーズは貧困問題を重視しているという点では経済的なポピュリストだが、金持ちや企業を全く非難しない」と残念がっているほどだ(Bai, ibid)。

エドワーズが貧困問題をキャンペーンの中心に据えたのは、エリザベス夫人の助言が大きいという。何やらティッパー夫人のアドバイスを受けたゴアが、環境問題に打ち込んで、敗北の失意から立ち直った話が思い起こされる。もっとも、候補者としては、ゴアに喩えられるというのも、あまり楽しい話ではないかもしれないが…

2007/07/18

Movement Candidate ? : オバマとネット・ルーツの距離感

最近民主党の予備選挙に関して良く聞かれるのが、オバマはディーンの再来なのかという問いかけである。確かに、飛び抜けた小口献金者の多さや、高学歴者に偏った支持層は、2000年(正確には1999年)のディーン旋風を思い起こさせる。しかし、オバマのキャンペーンは、ディーンとは明らかに性格が違う。「新しい政治」を謳う割りには、エスタブリッシュメントとの距離感がそれほど離れていないのである。

AEIのMatt Stollerは、オバマはムーブメント・キャンディデートではないと主張する。本来的なムーブメント・キャンディデートには、エスタブリッシュメントへの対抗概念としての色彩があり、そのアイディアを信奉する支持者が集まってくる。しかし、オバマのキャンペーンは、「新しい政治」を謳ってはいるものの、それ以上のアイディアの核は見当たらず、エスタブリッシュメントとの距離も遠いわけではない(Stoller, Matt, "Ronald Reagan and Movement Candidates: Idea Networks", Open Left, July 17, 2007)。

Stollerはこの辺りの特徴を、シンクタンクの研究者の行動を例示しながら説明する。Stollerはシンクタンクの研究者の間では、オバマのアドバイザーを目指した熾烈な競争が繰り広げられている筈だと指摘する。研究者とすれば、オバマが当選すればもちろんのこと、そうならなかった場合でも、キャンペーンで培った人脈が、キャリア・アップにつながるからだ。

このことは、オバマがエスタブリッシュメントの候補者である何よりの証である。オバマがムーブメント・キャンディデートであるとしたら、研究者がその陣営に加わることには、大きなリスクが伴う筈だからだ。ディーンのキャンペーンに明らかなように、ムーブメント・キャンディデートへの同調者は、エスタブリッシュメントには受け入れられない。従って、候補者が落選すれば、研究者自身の将来にも暗雲が立ち込める。将来への打算だけでは近付けないのが、ムーブメント・キャンディデートなのである。

それでもムーブメント・キャンディデートを支持したくなるのは、そのアイディアの力があるからだ。Stollerは、もっとも最近に大統領選挙を勝ち抜いたムーブメント・キャンディデートとして、レーガン大統領の名前をあげる。レーガン大統領は、サプライサイド経済学や規制緩和といったアイディアに同調する新しい人々を率いてワシントンに乗り込んだ。しかし、オバマにはレーガンに匹敵するようなアイディアとその同調者、すなわちムーブメントがない。

思い起こされるのは、オバマとネット・ルーツの微妙な関係である。ネット・ルーツこそは、新時代のムーブメント・キャンディデートを支える勢力だと考えられている。しかし、その大立者の一人であるMyDDのジェローム・アームストロングは、オバマは必ずしもネット・ルーツに支えられた候補者ではないという立場を取る。アームストロングは、オバマのキャンペーンはムーブメントではなく、「優れた候補者を擁する普通よりもよくできたキャンペーンに過ぎない」と指摘する(Cooper, Michael, "Lessons Learned as Obama Shepherds a Following", New York Times, June 23, 2007)。またアームストロングは、オバマに対する小口献金者の多さについても、「オバマの主流派に対する幅広いアピールが証明された。彼は、必ずしもブログを追いかけるような政治オタクではない、新しい人達を引きつけている」と評して、ネット・ルーツとの距離感を暗に示唆している(Armstrong, Jerome, "How Obama got his 258K donor movement", MyDD, July 17, 2007)。

実際に、オバマが集めた小口献金者は、必ずしもネットの力だけに頼った結果ではない。むしろ、オバマ陣営が利用したのは、集会におけるオバマの集客力である。実はオバマ陣営は、集会に参加するための安価な入場券の購入者や、会場でオバマ・グッズを買った人も、献金者にカウントしている(Kirkpatrick, David D., Mike McIntire and Jeff Zeleny, "Obama’s Camp Cultivates Crop in Small Donors", New York Times, July 17, 2007)。これまでの候補者には見られなかった新しいカウント手法であり、これによる上積み分は6~7万人ともいわれる(Armstrong, ibid)。

オバマ陣営が新しいカウント手法を採った背景には、したたかな計算がある。小口献金者の多さを印象づければ、現実の「草の根」がオバマになびいてくるという発想である。こうした計算高さは、並のムーブメント・キャンディデートには考えられない。

もっとも、ムーブメント・キャンディデートではないことは、オバマの弱みだとは言い切れない。むしろエスタブリッシュメントにも近いという立ち位置こそが、オバマを大統領になり得る候補者にしているのかもしれない。その辺りを見過ごしていると、オバマのキャンペーンの実力を見誤りそうである。

2007/07/17

Keep on Keepin' on:ファンド課税にみるヒラリーとオバマの相乗効果

民主党の予備選挙は、ヒラリーとオバマの一騎打ちの様相が強まっている。それだけに二人の候補者には、お互いの出方を意識したポジショニングが目立つ。こうした力学に変な相乗効果が働くと、民主党のフィールドが左に傾いていく結果にもなりかねない。

ヒラリーは、ヘッジ・ファンドやプライベート・エクイティ・ファンド(以下ファンドと総称)のマネージャーに対する課税強化に賛成する方針を明らかにした(Stout, David, "Clinton Calls for Ending Tax Break to Financiers", New York Times, July 13, 2007)。オバマに遅れること2日。さらに先行していたエドワーズと併せて、民主党の有力候補者の中では、もっとも遅い態度表明であった。

ファンド課税の強化は、それ自体が究極的にはキャピタルゲインに対する軽減税率維持の是非にも絡む重要な論点である。その辺りはいずれこのページでも取り上げるつもりだが、その政治的な意味合いも、なかなか興味深いこの問題を巡っては、民主党の候補者が、「庶民の味方」「格差の是正」といったポピュリスト的な主張と、大事な献金口であるウォール街との板挟みになってしまうからである。例えばヒラリーは、ニューヨーク州選出の上院議員であり、態度表明には慎重にならざるを得なかった。しかし、最大のライバルであるオバマが先に動いたために、ヒラリーの選択肢は著しく狭まった(Berman, Russell, "Clinton Faces Pressure on Hedge Funds", New York Sun, July 12, 2007)。

注目されるのは、詳細は後日に譲るが、ヒラリーがエドワーズと同じボジションを取り、オバマよりも強硬な対策を支持する方針を選んだことだ。既報のように、オバマにしてもファンドとの関係は重要である。実際のところ、ファンドからの献金額はむしろオバマの方がヒラリーよりも多い(Mullins, Brody, "Private Equity Gives More to Republicans", Wall Street Journal, July 17, 2007)。その辺りの配慮がオバマにはあったのかもしれないが、今度はヒラリーが一歩先に進んでしまったことになる。

一歩先んじられたら、直ぐに追いかけて、場合によっては半歩先に抜き返す。かつてイラク戦争に関しても見られた構図である。また最近では、中国に対する通商法案でも、同じような展開があった。6月末に二人の候補者は、「為替操作国」の認定基準を改変するという人民元を標的にした法案に賛成する意向を明らかにした。この時には、まずヒラリーが問題の法案の共同提案者になり、2日後にオバマが続いている。

ヒラリーやオバマのポジショニングには、極端な保護主義や金持ち批判が強まる前に、ある程度のガス抜きを行なっておく必要があるという政策的な判断が反映されているのかもしれない。特にオバマのスタンスには、極端な左傾化を避けようとする意識が感じられるのも事実である。しかし、二人の長すぎるマッチ・レースには、こうした配慮を吹き飛ばしてしまうような力学を生み出しかねないリスクが存在するように思われてならないのである。

2007/07/14

with Mr.Will : ブッシュ政権の「後遺症」を考える

記録的な低支持率に喘ぐブッシュ政権。その後世に与える影響はどのようなものになるのだろうか。ブッシュ政権が体現しようとした政策体系やイデオロギー自体が再起不能なダメージを負ったのだろうか。それとも、ブッシュ政権は実務能力に欠ける異常値だったという評価になるのだろうか。政策分野によって答えは違って来るのだろうが、ブッシュの8年間がどう総括されるかは、今後の米国の行方に無視できないインパクトを与えそうだ。

そんな中で、保守の論客であるジョージ・ウィルは、保守の立ち位置を再確認するかのようなコラムを発表している。それは、ブッシュ政権の残骸から、保守の未来を拾い上げようとする試みと言えるのかもしれない。

ウィルの出発点は極めてオーソドックスである。ウィルは、保守とリベラルの理念の違いを、自由と公平という概念で説明する(Will, George F., "The Case for Conservatism", Washington Post, May 31, 2007)。すなわち、前者を重視するのが保守であり、後者の問題意識が高いのがリベラルという分別である。まずウィルの矛先はリベラルを向く。ウィルに言わせれば、リベラルには、機会が公平であるかどうかを、結果の公平さを見て判断する傾向がある。このためリベラルは、結果の公平を確保するために市場に政府を介入させ、個人を政府に依存させるような福祉プログラム(エンタイトルメント)を拡大させる。

しかし、結果の公平を目指すのは望ましいことだろうか。ウィルはオバマの「新しいグローバル経済の重荷と恩恵は均等に分配されていない」という発言に噛み付く(Will, George F., "Democrats' Prosperity Problem", Washington Post, May 31, 2007)。果たして経済の重荷や恩恵が「均等に」分配されたことなどあっただろうか。格差が各人の努力や能力の違いによるものだったとしたら、それこそが公平だとはいえないだろうか。

格差が拡大している要因は、グローバリゼーションというよりも、技術に対するプレミアムが大きくなっている点が大きいというのは、学問の世界では半ばコンセンサスになっている。さらに最近では、成果を重視する評価体系の普及が、格差拡大の大きな要因だという研究結果も発表されている(Sherk, James, "An Upside To Inequality?", Business Week, July 9, 2007)。この研究では、1976年から93年までに間に発生した格差の24%が成果給に原因が求められるという。とくに所得上位20%に関する格差は、そのほとんどがこの要因で説明できる。成果給を導入した企業では、成果に応じて社内での給与に差がつくだけでなく、社員の勤労意欲が高まるために、未導入企業との格差も広がる。

では、保守の向うべき方向性は何か。ウィルは、自由こそが個人の尊厳を支える基盤であるという立ち位置を再確認する。しかし、だからといって福祉国家自体を否定しても勝ち目はない。むしろ論点にすべきなのは、政府によるプログラムの提供の仕方である。すなわち、個人の自由を広げるような仕組みで福祉国家を運営するのである。

ここまでくれば、勘のよい方はお分かりだと思う。こうしたWillの考え方は、ブッシュ政権が推進しようとした、「オーナーシップ構想」そのものなのである。

ブッシュ政権の時代には、折からの党派対立の高まりもあり、「オーナーシップ構想」は、福祉国家の解体によって民主党の支持基盤を切り崩すという、政治的な色彩ばかりが目立つようになった。しかし、政策論でいえば「小さな政府」を超えた「強い政府」の考え方は、民主党とも歩み寄れる部分があった。

民主党にしても、昔ながらの「大きな政府」に戻れば良いというものでもない。確かに、「オーナーシップ構想」という言葉自体は、余りに政治的な「汚染」が進んでしまったかもしれない。しかしこの潜在力がある概念自体が葬り去られてしまうのであれば、ブッシュ政権の後遺症はかなり深刻である。

女性が共和党を支持する理由:Who Wants to Break Free ?

民主党が大統領選挙に勝つためには、女性票で共和党に差をつける必要がある。しかし、女性の解放を訴える民主党のメッセージは、肝心の女性には届いていない。そんな意見が、保守の陣営から聞かれる。その理由は、女性は男性よりも自由であると感じているからだ。

最近の大統領選挙で民主党の候補者が敗れ去った一つの理由は、女性票での差を十分に広げられなかった点にある。2004年の大統領選挙を例に取れば、女性の48%がブッシュ、51%がケリーに投票している。2000年の選挙と比較すると、ブッシュの得票率は5ポイントも上昇しているのが現実である。

女性の共和党支持が強まっている理由は、安全への懸念だといわれることが多い。生活に関わる問題では、女性は民主党に親近感がある。しかし、9‐11後の米国では、何よりも気にかかるのは家族の安全である。だからこそ女性は共和党に投票する。そんなロジックが、セキュリティ・マムなる怪しげな言葉が生まれた背景にあるし、民主党も軍事に強くならなければならないという議論のバックボーンの一つにもなった。

しかし、AEIのArthur C. Brooksの見方は違う(Brooks, Arthur C., "The Political Gender Gap", Wall Street Journal, July 12, 2007)。民主党の問題は、女性の自由に関するメッセージだというのである。民主党の女性に対するメッセージは、共和党の下では女性の自由が抑圧されているというものだ。職場での賃金・昇進などにおける評価の不当さや、出産の自由(中絶の問題)が好例だし、極端なところでは、米国の社会システム自体が女性を疎外する仕組みになっているという議論になる。

しかし、世論調査を見る限り、米国の女性は取り立てて抑圧されているという意識が強いわけではない。むしろ、家族構成や所得が同じ場合で比較すると、個人的に自由であると感じている割合は、女性の方が男性よりも10ポイントも高いという。しかも、伝統的なしがらみが少ない女性ほど自由を感じているかと思いきや、この点についても、必ずしも強力な証拠は見当たらない。確かに、子どものいる女性は、子どものいない女性よりも自由を感じる度合いが僅かに低い。しかし、結婚している女性は、未婚の女性よりも、自由を感じる度合いが10ポイントも高い。こうした女性が自由を感じているという現実が、民主党が女性票を延ばせない一因だというのがBrooksの指摘である。

なぜ女性は自由を感じているのか。伝統的なリベラルの議論は、「女性は騙されている」というものだ。これは、経済的に貧しい白人が、何故か富裕層に優しい共和党を支持している理由としても、上げられやすい議論である。同時に、こうしたリベラル層の有権者を見下ろしたようなエリート臭い考え方が、民主党とメイン・ストリートとの距離を広げてしまっているという批判もある。

他方で、Brooksのような保守派が指摘するのは、宗教などを通じた精神的な充実である。Brooksによれば、男性よりも女性の方が、日常的に宗教的な行為を行なう割合が高い。また、具体的に自由を感じた出来事としても、女性の場合には、精神的・宗教的な経験をあげる割合が、男性の約2倍に達しているという。

ところで、自由をもっとも感じていないのは、どうやら民主党を支持する男性のようだ。こうした層では、29%が大きな自由がないと感じている。共和党を支持する女性だと、その割合は17%だ。選挙に与えるインプリケーションもさることながら、こうした不満のエネルギーが、民主党の政策に与える影響も、気になるところである。

まあ、個人的に言わせて頂ければ、台風の近付く3連休の初日に仕事に向っているようでは、自由を感じるのも楽じゃないよね...と思っていたら、目的の駅につくと何故か海の香りがする。確かに海から遠くない駅ではあるけれど、今年の春から週に1度通い始めて以来、初めての経験である。少しトクをしたような気がするが、これもちょっとした「精神的経験」なのだろうか...

2007/07/13

争点としてのイラクの寿命:Ain't It Over, 'til It's Over ?

最近めっきり聞かなくなった名前といえば、カール・ローブである。あれほど「稀代の戦略家」と持てはやされていたのが嘘のようだが、そのローブが注目すべき発言を行なっている。来年の大統領選挙では、イラク戦争が他を圧倒するような争点になるとは思えないというのだ(Davis, Teddy, "Rove Says Iraq Won’t Dominate 2008", ABC News, July 09, 2007)。

理由は三つある。第一にローブは、「来年の春にイラクがどうなっているかを自分なりに予測すると」、イラクは大きな争点にはならないという結論が導き出されるとする。第二に、民主党の候補者も、イラク問題をトーンダウンしたいと思っているとローブは指摘する。選挙中のコミットメントのせいで、いざ大統領になった時の行動を縛られるのを嫌うからだ。そして第三の理由は、共和党の候補者は、国防政策をイラクに限定されない広い文脈で語ろうとするだろうという見立である。

曲者は第一の理由である。ローブは、来年の春にイラクが具体的にどうなっていると予測しているかは明言していない。しかしこの発言は、ホワイトハウスの否定にもかかわらず、やはりブッシュ政権内部で、米軍撤退に向けた立案が進んでいるという疑念につながる。

そんな雰囲気を感じているのか、ロムニー、ジュリアーニ、トンプソンといった共和党の有力候補者達も、増派の成功に命運を縛り付けられてしまわないように、少しずつ発言にニュアンスを加え始めている(Richter, Paul and Peter Nicholas, "GOP front-runners not wedded to 'surge'", Los Angels Times, July 11, 2007)。増派の判断は正しかった。しかし、戦略は状況に応じて変化していくものだ。そんな位置取りである。ローブにも近いグローバー・ノーキストは、こう解説する。「ブッシュの戦略がどうなるかもわからないのに、それと一体化してしまえるわけがない。9月には突然大きな曲がり角があるかもしれないのだ」。

もちろん例外はマケインだ。イラクの視察を終えたマケインは、自らのキャンペーンが瀕死の状態にある中で、引き続き増派への支持を訴えた。どうやらその脳裏には、ベトナム戦争の経験が甦っているようだ。マケインは、ベトナム戦争の時には、現地の状況に何の責任も負わない国内のリベラル左翼が、まだ戦略の初期段階だという米軍の意見を聞かずに、その撤退を余儀なくさせたと指摘する。「この映画は前にも見たことがある」。これがマケインの憤りである(Bresnahan, John, "McCain clashes with Voinovich", Politico, July 10, 2007)。

父親が始めた戦争を引き継ごうとした息子。かつて戦場に取り残された経験がある兵士。最後まで残った二人が戦っているのは、現実とは違う戦争なのかもしれない。

2007/07/12

Run, Sara, Run

このページを熱心に読んでいらっしゃる方ならば、ひよっとしたらおやっと思われたかもしれない。11日に上院司法委員会は、連邦判事の不当解雇問題に関する公聴会を開催した。政治的な思惑での解雇が疑われているブッシュ政権の関係者として同委員会に召喚されたのが、ブッシュ政権の若きベテランにしてカール・ローブの腹心。先頃政権を離脱したばかりの、サラ・テイラーである。

この件を報じるWashington Postの記事には、98年のある冬の日に、いかにして若干24歳のテイラーがローブとブッシュ本人にスカウトされたかという、半ば伝説となっている話が取り上げられている。また、「データを分析できる能力」が、テイラーの目覚ましい出世の原動力だったという話も興味深い(Pappu, Sridhar, "A Bush Aide's Long Road From The White House", Washington Post, July 12, 2007)。長期に亘る激務に区切りをつけたかと思いきや、そうは問屋が下ろさなかったようである。

答弁の中でテイラーは、大統領特権の関係で、「答えたくても答えられない」という回答を度々繰り返した。証言拒否は裁判につながる可能性もあるわけで、板挟みになったテイラーに同情的な報道も少なくない。その一方で、テイラーが全ての回答を拒否したわけではないために、そもそも大統領特権の定義が不透明だという批判も聞かれる。中にはテイラーが、自己保身のために大統領特権を恣意的に使っているという見方すらあるようだ(Lithwick, Dahlia, "Rocking the Hard Place", Slate, July 11, 2007)。実際テイラーとしても、ここでの振る舞い方が、将来ワシントンに復帰する時の待遇を左右するという現実がある。良くも悪くも「ローブの腹心」という勲章によって、テイラーにはくっきりとした色がついている。今さら政権に反旗を翻すというのも考え難い展開である。

それにしても、ホワイトハウスを去るにあたって、民主党による調査の動きを察知して、プロフェッショナル用の賠償保険に入っていたとは(しかも、それが弁護士費用には適用されないとは)...何ともはや、今のアメリカを象徴するような出来事である。

2007/07/11

マケインの非常事態:Can Dead Man Even Walk ?

このタイトルは陳腐だから避けたいとかねがね思っていたのだが、こうなってしまっては仕方がない。マケイン陣営は、明らかに非常事態にある。ひょっとすると、大統領候補としてのマケインの資質が問われているのかもしれない。

マケイン陣営から主要なスタッフが離脱することになった。離脱が決まったのは、Campaing Managerのテリー・ネルソンとChief Strategistのジョン・ウィーバー。これにPolitial DirectorのRob Jesmer、Deputy Campain ManagerのReed Galen、Finance DirectorのMary Kate Johnsonが続いた。なかでもウィーバーは、マケインの長年の腹心であり友人。今回の離脱は、カーウ゛ィルがクリントンを見限り、ローブがブッシュと袂を分かつようなものだという(Kornblut, Anne E., "McCain Loses Longtime Ally in Campaign Shakeup", Washington Post, July 10, 2007)。

離脱の理由は幾つか指摘されている。表立って強調されているのは、資金繰りの問題である。既に触れたように、マケイン陣営は資金集めに苦戦している。なかでもマケインが不満だったのは、キャンペーンの支出の多さだったという。ブッシュ陣営から招聘されたネルソンは、集金力に物を言わせたブッシュの選挙のように、潤沢にお金を使う戦法を選んだ。しかし、カローラ級の予算でキャデラック級の選挙を戦うのは無理だった(Martin, Jonathan and Mike Allen, "McCain drain: Inside the implosion", Politico, July 10,2007)。

もう一歩深みに降りると、今回の離脱劇には、マケイン陣営の選挙戦略に関する問題が投影されている。今回の選挙をマケインは、主流派の立場で戦おうとした。その象徴がネルソンのブッシュ陣営からのの招聘であり、それを演出したのがウィーバーであった(Cillizza, Chris, "Where McCain Stands Now", Washington Post, July 10, 2007)。しかし現在までのところ、主流派にすり寄る路線は裏目に出ている。「一匹狼」「直言居士」で知られたマケインは、すっかり2000年選挙の頃の輝きを失ってしまった。ネルソンの後任になるリック・デービスは、その2000年選挙でマケイン陣営のCampaign Managerを務めていた人物である。

さらに言えば、今回の事態には、大統領候補としてのマケインの資質が問われている側面がある。報道の中には、今回の離脱劇を陣営内の権力闘争の結果だと評する向きがある。マケイン陣営は指揮系統が混乱しており、主要なスタッフ間の争いが絶えなかったという。「キャンペーンはまるで上院議員のオフィスのように運営されていたが、それでは選挙は戦えない」というコメントもあるほどだ(Martin et al, ibid)。

そこで問われるのは、マケインの管理能力である。今回の選挙は、何よりも「能力」が問われる選挙だという。ベテラン議員のマケインにしても、経験は大きなアピールになる筈だ。しかし、大統領選挙のキャンペーンも統率できないのに、国を率いることができるのだろうか。

かつてマケインを国防長官にしてはどうかと言う議論があった時に、ある識者にそんな選択は有り得ないと言われたことがある。マケインには、国防総省のような複雑な機関を運営する実務能力が決定的に欠けている。それが理由だった。

マケインがケリーのように復活を果たす可能性が消えたわけではない。しかし、潜在的に深刻なのは、来たるべき「マケイン政権」の脆弱性が、思わぬところで露呈してしまったことではないだろうか

2007/07/10

The Emergence of a Leader:ペロシの正念場

独立記念日の休会が終わり、米国では議会が再開されている。女性初の下院議長となったペロシ議員にとっては、いよいよ正念場である。

ブッシュ大統領の支持率低下に負けず劣らず、有権者の議会に対する評価は厳しい。CBSが6月26~28日に実施した世論調査によれば、議会に対する支持率は27%であり、大統領支持率と並んでいる。背景には、多数党の交代がこれといった政策の変化につながっていないという現実がある。上院での議席の少なさが要因であるとはいえ、全議員が来年改選される下院を預かるペロシ議員としては、有権者の支持回復は急務である。

もっともペロシ議員も、民主党の中での地位は着実に固めているようだ(Weisman, Jonathan, "Edging Away From Inner Circle, Pelosi Asserts Authority", Washington Post, July 9, 2007)。そもそもペロシ議員は、民主党の団結強化と、少数党(共和党)の立場を尊重した議会運営という、相反する目標を掲げていた。しかし、実際の議会運営でペロシ議員が優先したのは、明らかに民主党の団結である。その証拠にペロシ議員は、共和党が民主党の内紛を誘うために提案した議題への投票を度々拒否している。明らかな少数党の権利の蹂躙である。

同時にペロシ議員は、党内の権力基盤の拡大にも手を付けているという。当初懸念されていたのは、ペロシ議員がリベラル系の取り巻きを重用し過ぎることだった。実際に、党のNo.2である院内総務に近しい関係にあるマーサ議員を登用しようと画策したという事件もあった。しかしペロシ議員は、取り巻きとのしがらみには必ずしも縛られない議会運営も行ない始めている。例えば最重要案件となったイラク戦費に関しては、問題のマーサ議員ではなく、オビー歳出委員長に陣頭指揮を取らせた。また、中間選挙勝利の立役者であるエマニュエル議員の存在感も大きい。対照的にかつての取り巻き議員の中には、ペロシ議員との会合が減少した事を嘆く声もあるようだ。

取り巻きとの距離感に続くペロシ議員の次なる課題は、ベテラン議員との関係である。民主党には、ペロシ議員よりもよほど経験のある議員が、委員長として権力を握っている。ペロシ議員とすれば、かつての共和党のような「強い指導部」を確立したいところだが、そのためには委員長達を名実共に支配下に置かなければならない。

その試金石として注目されているのが、エネルギーや温暖化問題を巡るディンゲル商業委員長との関係である。ミシガン州選出のディンゲル議員は、自動車業界への配慮から、温暖化問題への姿勢は必ずしも積極的ではない。この問題に力を入れたいペロシ議員との違いは歴然としている。とはいえディンゲル議員は、メディケアの創設に関わったほどのベテラン議員。ペロシ議員としても一筋縄では行かない。実際に、ペロシ議員がエネルギー自立と温暖化問題に関する特別委員会を新設した際には、領域を侵さないようにディンゲル議員に釘を差されてしまった。

現在両者のせめぎあいは、第二ラウンドに入っている。自動車の燃費基準に関する立法作業である。この問題に関しては、ペロシ議員がディンゲル議員の当初案をはね付けたために、その力の高まりが示されたと分析する向きが少なくない(Weisman, ibid)。しかし外交評議会のSebastian Mallabyなどは、むしろディンゲル議員の方が交渉におけるポジション取りが巧みだったとして、ペロシ議員には辛い評点を付けている(Mallaby, Sebastian, "A Word From the Speaker", Washington Post, July 9, 2007)。

Mallabyは、ディンゲル議員だけでなく、農業法の改正に関するピーターソン農業委員長との対決も重要だと指摘する。エタノール熱で農家が潤っているにもかかわらず、ピーターソン委員長は現行の補助金制度の温存を狙っている。ペロシ議員が「強い議長」の座を確立するためには、避けては通れない関門である。先を見通せば、08年の大統領選挙の結果次第では、初の女性大統領が誕生するか、そうでなくても、初の女性上院院内総務の芽が出てくる可能性が高い。「先輩格」としては少しでも先行しておきたいところかもしれない。

2007/07/09

機関車トーマス:グローバリゼーションのアキレス腱

最近の米中関係には、ちょっとした局面の変化が感じられる。数年来の人民元問題に関しては、ある程度の方向性は固まってきた。対中法案の内容もグレードアップされてきたし、IMFやWTOも巻き込まれてきた。結局のところ、焦点は保護主義が暴発しないようなコントロールができるかどうかである。強弱の変化こそあれ、ここ数年はこうした構図自体には目立った変化は見られない。

むしろ気になるのは、摩擦の範囲の広がりである。SWFへの懸念や、ダルフールに端を発したオリンピックの辞退問題もさることながら、意外に大きな話になりそうな気がするのが、中国製品の安全性の問題である。

米国では、ペットフードや歯磨き粉、玩具にタイヤと、中国からの輸出品の安全性が問われる事件が相次いでいる。調べてみれば、既に昨年の時点で、米国のComsumer Product Safety Commissionによってリコールされた中国製品は467件に上っており、2000年には36%だったリコール件数に占める割合は60%に達していた(Lipton, Eric S., and David Barboza, "As More Toys Are Recalled, the Trail Ends in China ", New York Times, June 19, 2007)。機関車トーマスの玩具のように、鉛の含有が原因でリコールされた26件についても、その89%が中国製品であり、93%が全米で販売されていた("Lawmakers Call for More Regulation of Hazardous Products Imported From China", Daily Report for Executives, July 6, 2007)。食料品についても、今年4月までの4ヶ月間だけで、298件の中国からの輸出品がFDAに陸揚げを拒否されている。金額ベースで中国の5倍の対米輸出があるカナダでも、同時期の陸揚げ拒否は56件に過ぎなかった(Weiss, Rick, "Tainted Chinese Imports Common", Washington Post, May 20, 2007)。

この問題は、これまでの貿易摩擦とは次元が違う。米国で保護主義が暴発しない一つの理由は、中国からの安価な輸入品の確保が「消費者」にとってのメリットだからだ。ウォルマートは庶民の味方だし、企業にとっては中国はサプライ・チェーンに欠かせない大切なピースである。なにせ、米国で売られている玩具の70~80%は中国製である(Lipton et al, ibid)。しかし、家族が食べる食材や、子どもの玩具が有害だとなったらどうだろう。企業にしても、訴訟リスクやレピュテーションリスクへの配慮は軽視できない。実際に輸入企業の間には、自前での検査体制を強化すると同時に、米国内での不買運動などに発展した場合に備えて、新たな調達先を模索する動きがあるようだ(Barboza, David, "China Steps Up Its Safety Efforts", New York Times, July 7, 2007)。中国にしても、たかだか数百人の国会議員とやり合うのと、米国の消費者を敵に回すのでは、事の重大さが違う。だからこそ中国政府も、矢継ぎ早に対策を打ち出しているのである。

さらにこの問題は、グローバルゼーションと規制のあり方にも一石を投じそうである。既に米国では、中国からの輸入品を中心に、安全性監視の仕組みを強化すべきだという議論が出ている。民主党のシューマー上院議員が要求するのは、①担当省庁を統括する輸入担当官の新設、②食品の材料レベルにまで下りた原産国表示の義務付け、③食品検査手続きの厳格化(実地検分に関する事前通知の廃止等)、④製造地での実地検分の強化、⑤食品安全基準の強化(早期通報を怠った場合の罰金増額等)である。

こうした米国が単独で出来る措置を求める声が上がるのは、ある程度は想定の範囲内だろう。むしろ気になるのは、国際的な規制の枠組みを求める動きである。実際にWashington PostのHarold Meyersonなどは、経済活動が国家の枠組みを超えてきた以上、規制の実効性を保つためには、国境を超えた協力関係や枠組みが不可欠だと主張する(Meyerson, Harold, "Global Safeguards for a Global Economy", Washington Post, July 5, 2007)。さらにMeyersonは、環境問題や労働者の権利についても、同じような議論が容易に適用できるとも論じている。

一足飛びに労働者の権利にまで話を広げるのは、やや乱暴な議論である。しかし、グローバルな規制を求める勢力に、「安全性」という取っ付き易い入口が提供されたのは確かである。市場の自浄作用がどのように働くのか。ひょっとすると、グローバリゼーションの今後という観点では、人民元の動きよりも気にする必要があるのかもしれない。

2007/07/08

Sad Songs (Say So Much):黒人がオバマに投影する「現実」

ヒラリーとフェミニストの微妙な関係について触れたことがある。同じように微妙な関係は、オバマと黒人の間にも存在する。そんなことを再認識させられたのが、Washington Postに掲載されたあるコラムだ(Luqman, Amina, "Obama's Tightrope", Washington Post, July 6, 2007)。

このコラムによれば、黒人の支持者がオバマのパフォーマンスから感じるのは、誇りであると同時に痛みでもあるという。仲間が権力の頂点に挑戦しているという事実がある一方で、黒人が米国社会で信頼され、受け入れられるためには、何が必要なのかが白日の下に晒されるからだ。

ジェシー・ジャクソンや、アル・シャープトンといった過去の黒人候補者は、何よりも黒人の代表であるというイメージを重視した。しかしオバマは、あからさまに黒人の肩を持ったり、白人を攻撃したりはしない。むしろ、過去の責任を問わなくても、共に成長していける筈だというのが、オバマのメッセージである。

こうしたオバマのスタンスは、本気で大統領を目指す候補者としてのそれである。そもそもジャクソン達の頭には、大統領になれるなどという発想はなかった。むしろ彼らの狙いは、黒人の支持を固めて、民主党の中でキャスティング・ボートを握り、その方向性に影響を与えることだった。しかし本当に大統領になろうと思うのならば、黒人票だけでは不十分である。だからこそオバマは、黒人であるという事実を慎重に扱わなければならない。これがヒラリーであれば、正面から黒人の味方であると強調しても、大した問題は生じない。しかし、6月28日の候補者討論会でのヒラリーのように、オバマが「HIV-AIDSが白人女性の問題だったら、今頃大騒ぎになっている筈だ」などと発言すれば、それこそ大騒ぎになってしまう。

黒人層にすれば、オバマに黒人ならではの不満や怒りを代弁してもらいたいのは山々である。しかし彼らのジレンマは、そうなれば当選できそうな黒人候補者を失ってしまうことにある。

このコラムは、オバマが演じている綱渡りは、黒人が日常的に演じている事柄だとも指摘する。ヒラリーに対するフェミニストの感情には、「憤り」とでも表現できるような雰囲気がある。これに対して黒人のオバマ観には、哀しみの色彩が感じられてしまうのである。

2007/07/07

Trading Places:オバマのアドバイザーとグローバリゼーション

「米国で保護主義的な気運が高まっている背景には、所得格差の拡大がある。経済的に有害な政策を避けるためには、税制の累進性を高めて、所得の再配分を進めるべきだ」

「米国では国際競争への懸念が高まっているようだが、むしろ米国は他国に恐れられている存在だというのが現実である」

前者はブッシュ政権で経済諮問委員会のメンバーだったマシュー・スローターが共同執筆者になっている論文のエッセンス(Scheve, Kenneth F., and Matthew J. Slaughter, "A New Deal for Globalization", Foreign Affairs, July/Auust 2007)。後者は、オバマ陣営の経済アドバイザーであるオースタン・グールズビーのコラムである(Goolsbee, Austin, "How the U.S. Has Kept the Productivity Playing Field Tilted to Its Advantage", New York Times, June 21, 2007)。同じような時期に書かれたグローバリゼーションに関する論評ではあるが、まるで共和党と民主党の主張が入れ替わったかのような内容である。

スローターは、主に民主党系の識者の間で盛んになっている税制の累進性強化論に、グローバリゼーション擁護の立場からアプローチしている。その点では、ハミルトン・プロジェクトを率いるルービン元財務長官の方法論に近い。

その一方で、グローバリゼーションに強気なメッセージを出し続けているのが、グールズビーである。グールズビーのコラムは90年代に米国が成し遂げた生産性革命は、米国の特性が活かされた結果であり、他国に対する米国のアドバンテージは今後も続いていく可能性があると指摘する。

グールズビーの議論の根拠は、買収された企業の生産性を比較した英国の研究にある。この研究によれば、金融業などのサービス・セクターでは、米国企業に買収された場合の方が、他国企業に買収されたケースよりも、生産性の伸びが大きく高まっていたという。90年代の生産性革命は、IT技術の普及による部分が大きいというのが一般的な見方である。しかし、半導体の価格低下自体は欧州などでも起こっている。米国が抜け出せたのは、ITを生産性に転化する能力に長けていたからだ。

問題は、その「能力」とは何かという点である。グールズビーも指摘するように、通常の経済発展論であれば、後発国には先進国に学べるという利点があり、いずれは両者の水準は収斂していく。

ここまでくると、グールズビーの結論は、途端にオバマのアドバイザーらしくなってくる。何しろ、米国が他国に負けない強みは、「変化」への対応力だというのである。グールズビーは、90年代の世界経済に見られた変化の早さは、21世紀にも継続すると考える。大切なのは、変化に対応する柔軟性である。米国民は構造調整の苦しみを訴えるが、こうした調整ができるという事実こそが、米国の強さの裏返しなのである。

さすがは、Change Agentを任ずるオバマ陣営の経済アドバイザーである。

さらにグールズビーは指摘する。米国人でもグローバリゼーションに対応するのは苦しいかもしれない。しかし、明るい側面を見てみよう。ひょっとしたらフランス人に生まれていたかもしれないのだ。

なかなかどうして、フランス・バッシング(?)まで共和党流である。

2007/07/06

Tax Tax Everywhere:累進性強化に動く民主党とその限界

今回の大統領選挙で、民主党と共和党の候補者の立場が少なくとも表面的には大きく分かれるのが、税制に対する態度である。共和党の候補者達はブッシュ減税の延長を旗頭に、おしなべて減税路線の維持を主張する。これに対して民主党陣営は、税制の累進性強化を提案し始めている。

6月28日に行われた民主党の候補者討論会で話題になったのが、前日に開催されたヒラリーの資金集めパーティーでの、ウォーレン・バフェットの発言である。この会合でバフェットは、「自分のような金持ちよりも自分の秘書の方が税率が高いのはどうしたことか」と述べた(Fouhy, Beth, "Buffett Helps Put on Clinton Fundraiser", Washington Post, June 27, 2007)。討論会でこの件について意見を求められた各候補者は、異口同音に「恵まれた人が相応の税金を払う仕組みが必要だ」と主張した。

バフェットの発言自体は、同氏のかねてからの持論であり、聞き覚えがある方も少なくないかもしれない。例えば、オバマのAudacity of Hopeには、オバマがバフェットに面会しに行って、同じ話を聞かされる場面が出て来る。クリントン人脈では、ジーン・スパーリングのThe Pro-Growth Progressiveにも同じ話が引用されているし、エドワーズも討論会では、直接バフェットからその話を聞いたことがあると発言している。

面白いのは、同じバフェットの話を題材にしながらも、有力候補者の答え方には、それぞれの色があった点である。

まず各候補者の回答を紹介する前に、米国の所得税は累進税なのに、なぜバフェットのような現象が起きるのかを謎解いておこう。最大のトリックはキャピタルゲイン・配当課税にある。バフェットの収入の多くの部分は、キャピタルゲインや配当が占めている。ブッシュ減税のおかげでこの部分の税率が低いので、全体的な所得税率も下がってしまうのである。また、社会保障税も曲者だ。社会保障税は所得の高低とは関係のない単一税率。しかも、税の対象になる所得には上限もある。

前述のように、累進性の強化という点では、各候補者の回答の趣旨は共通している。しかし、有力候補の中でも、もっとも完成度の高い回答をしたのは、最初に答える機会が回ってきたエドワーズだろう。エドワーズは、「成功している人たちは国や周りのコミュニティーにお返しをする責任を負うべきである」とした上で、第一にブッシュ減税の高額所得層向け部分を廃止すべきだと主張する。その上で第二に、バフェットのケースはキャピタルゲイン・配当課税が優遇されているから発生したことを忘れてはならないとして、「(キャピタルゲイン・配当課税の対象となる)富だけではなく(所得税の対象となる)労働を評価すべきだ」と締めくくった。過不足のない、美しい回答である。

これにたいしてオバマの回答は、税制に関しては累進性の強化が全てだと言って良い。実際にオバマは、ブッシュ減税の高額所得層向けの部分をスケジュール通りに廃止するべきだと主張した。もっともオバマの力点は、税制が云々というよりは、富める者も貧しい者も、みんなが一緒になって成長していくという意識が大切だという点にある。だからこそオバマは、余裕のある人が多めに税金を負担し、これを公平な機会が提供されるように使うべきだと指摘する。相変わらずの美しい議論ではあるが、税制の提案としては、正直食い足りない。これがAudacity of Hopeになると、一体感の大切さから、さらに話はワシントンと庶民の意識の乖離へと進んでしまい、ちっとも税制の話ではなくなってしまう。

ヒラリーの回答も面白い。ヒラリーは、バフェットの発言を説明する際に、社会保障税要因を紹介している。キャピタルゲイン・配当課税要因は既にエドワーズが取り上げていたので、ヒラリーとしては、もう一つの視点を指摘したかっただけなのかもしれない。しかし、この回答には、「さすが政策通」では済まされない落とし穴がある。ヒラリーは社会保障税の累進性を強化したいのかという疑念を招いてしまう点だ。所得税率やキャピタルゲイン・配当課税については、ブッシュ減税の見直しで、累進性の強化が実現できる。しかし社会保障税は、ブッシュ減税とは無関係である。それではヒラリーは、ブッシュ減税の見直しを超えた増税を目指しているのだろうか?さらに言えば、社会保障税の問題は年金改革と切り離せない。現にブッシュ政権は、年金改革の一環として、社会保障税の課税上限引き上げを検討していた時期があった。同じようにヒラリーも、高額所得層への課税強化で年金改革を実現しようとしているのだろうか?いずれの問いも、仮に答えがYESであれば、かなり大きなステートメントである。

実際には、累進性の強化といっても、ブッシュ減税の見直し以上の提案がされるのは稀である。有力候補者では、エドワーズがその可能性を否定していない程度である。今回のヒラリー発言についても、陣営は「特定の政策への支持ではない」と火消しに回った(Davis, Teddy and Tahman Bradley, "Democrats rip court ruling, show unity at debate", ABC News, June 29, 2007)。

減税一辺倒だったブッシュの時代からは、累進性の強化が表立って議論されるようになっただけでも、税制を巡る環境は大きく変わった。しかし、民主党の候補者にとって、"Tax and Spend"はいまだに嬉しいレッテルではないのも事実である。民主党の候補者がたどり着けるところは、それほど遠くはないのかもしれない。

2007/07/05

ヒラリーと朝食を

今回の選挙には、ヒラリーにとって好ましい条件がある。好感度よりも、能力が評価される可能性がある点である(Simon, Roger, "Like it or not, competence could be back", Politico, July 3, 2007)。

ヒラリーは決して好感度の高い候補ではない。むしろ計算高く冷たい女性という受け止められ方をされがちだ。通常であれば、こうした評判は大統領を目指すには致命的である。何せレーガン大統領以来の米国では、好感度の高い候補が常に大統領の座を射止めてきた。

しかし、今回は違うかもしれない。それもこれもブッシュ大統領のおかげである。2000年のブッシュこそは、好感度を最大の切り札にした候補だった。「一緒にビールを飲むならどちらの候補が良いですか?」なんていう世論調査が大真面目に行われ、焦ったゴアはアース・カラーの服を着て好感度アップを狙って墓穴を掘った。しかし、今や好感度No.1の大統領は、史上最低水準の支持率に喘いでいる。イラク戦争やカトリーナの経験は、米国民に「好感度だけでは大統領は務まらないのではないか」という疑念を呼び起こしたとしても不思議ではない。

「保険会社に足病医の通院費用を払わせるのは一仕事。彼らは足の切断手術を受けさせるためなら喜んでお金を払うのに!」ヒラリーの演説では、こんな部分がものすごく受けるという。冷淡だろうが何だろうが、「問題の在処が分かっている人」「能力のある人」に大統領になってもらいたい。そんな有権者の思いは、ヒラリーにとって追い風になるかもしれない。

なかには、「経験」と「能力」は違うなどという意見もある(Caldwell, Christopher, "Experience Can Be A Drawback", Financial Times, June 29, 2007)。例えば、オバマにだって地域のオーガナイザーや州議員としての経験がある。むしろ政治家に欠かせない政治的な組織を立ち上げていく力という点では、オバマに一日の長がありそうだ。何せヒラリーの場合には、既に用意されていた組織を使っているだけである。そもそもヒラリーのファースト・レディ時代の政治的な活動は成功だったとは言いがたい。むしろ、ヒラリーの経験が示しているのは、能力というよりも「しぶとさ」である。経験とは危機への対応能力を磨くチャンスでもあるが、ヒラリーが旦那の弾劾騒ぎで示したのは鉄のような頑迷さである。たしか米国は「頑迷」な大統領の下でよくない経験をしたばかりではなかっただろうか?

但し、こうした意見を書いているのが、保守系オピニオン誌Weekly StandardのSenior Editorだというのが、ちょっとした隠し味ではある(さてはこれも右翼の巨大な陰謀か?)。

実際のところ、ヒラリーの選挙戦における「能力」の示し方は、なかなかの評価を集めている。能力があることを自覚している候補者は、ともすれば説教臭くなったり尊大になったりしがちである。しかしヒラリーは、しっかり論点を理解しているという雰囲気を醸し出しながらも、必要以上に知識をひけらかしたりはしないという。これまでの候補者討論会でも、いつも最高の評価を得ているのは、ヒラリーである。雄弁で知られるオバマの討論会でのパフォーマンスが、「不器用でためらいがち、受け身で自信なさげな上に必要以上に説明が複雑」などと評されているのとは対照的である。「この調子だとそのうちヒラリーの好感度も上がるのではないか」なんていう指摘があるほどだ(Crook, Clive, "A Peculiar Race for the White House", Financial Times, July 4, 2007)。

もっとも、さすがにそこまでの評価は行き過ぎかもしれない。旦那の元大統領のように、「好感度も高く政策も分かる」なんていう評価を受けるのは容易ではない。

そういえば、ヒラリーと一緒にアイオワに遊説に繰り出したクリントンは、あろうことかヒラリーの演説中に思い切り退屈そうな態度を示してしまったらしい(Meadows, Susannah, "Spousal Shortcomings", Newsweek, July 3, 2007)。クリントンは好感度という点でヒラリーにとって最強の武器なのは確かだが、なかなかどうして苦労させられそうである。

4th of July, USA

7月4日は独立記念日。大事な日に更新し損ねてしまいました。

罪滅ぼしに各地の情報(?)を(今日の更新は後ほど改めて)。

独立記念日、あなたならどこにいたかったでしょうか。

1.ワシントンDCのモールで花火見物

2.アイオワ大統領選挙の候補者見物(Nagourney, Adam, "Fun and Relaxation? Not for a Presidential Candidate on the Fourth of July", New York Times, July 5, 2007)

3.Willie Nelsonの4th of July ピクニック(Starnes, Joe Samuel, "The Founding Fathers, Willie and Me", New York Times, June 29, 2007)

私はもちろん3です。この記事を読んだら、俄然行きたくなってしまいました。

とはいうものの、本当は米国人の友人の家に寄せてもらうのが一番。独立記念日というのは本当に米国という国を感じさせる一日ですね。

2007/07/03

Money (Changes Everything ?):オバマとマケインの明暗

夏枯れの大統領選挙に久し振りに大きなニュースが届けられた。第2四半期の政治献金報告である。明暗を分けた2つの陣営が気にするのは、何故か04年の民主党予備選挙の記憶である。

今回の報告が明るいニュースになったのは、何といってもオバマである。3250万ドルの献金総額(うち3100万ドルが予備選用)は、ヒラリーの2700万ドル(同2100万ドル)を、余裕で上回った(Zeleny, Jeff, "Obama Campaign Raises $32.5 Million", New York Times, July 2, 2007)。予備選用の献金だけを見れば、その差は同じ期間のエドワーズの献金総額(約900万ドル)に匹敵する。オバマは二期連続して予備選用の献金額でヒラリーを上回った。民主党の予備選挙では、「組織と資金力ではヒラリーが圧倒的に強い」という「常識」の一角が、もはや通用しなくなった。

見逃せないのは、今回のオバマの報告には、ヒラリーのもう一つの「強み」、すなわちその組織力に迫る鍵が秘められている点である。オバマにとって、少額の献金を行なった草の根支持者のリストは、ボランティアによる動員活動を展開するための強力な武器になる。オバマへの新規献金者は、この四半期だけで15万4千人に達する。何と一日に1500人がオバマに献金した計算になるという(Zeleny, ibid)。オバマ陣営は、序盤戦ヒラリーもかなわないような潤沢な資金を投入し、そこでのモメンタムを、2月4日のスーパー・チューズデーには草の根の組織が引き継ぐというシナリオを描く。バージニア大学のサバト教授は、今回の結果がヒラリー陣営に突き付けた警告は本物だと指摘する。ヒラリー陣営が持ち合わせていないのは、草の根の熱気であり、それをコントロールしているのがオバマだからである("Obama Outraises Clinton by $10 Million", ABC News, July 2, 2007)。

もっとも、巨額の献金と草の根の熱気がありさえすれば、予備選を勝ち抜けるというわけではない。草の根の勢いを票に結び付けることの難しさは、04年のディーンの失速にハッキリと示されている。また、草の根は得てして急進的な動きをしがちなのも、「新しい政治家」を標榜するオバマには気掛かりだろう。その辺りはオバマ陣営も意識しており、草の根層とのコミュニケーションを慎重に行なっているようである(Cooper, Michael, "Lessons Learned as Obama Shepherds a Following", New York Times, June 23, 2007)。

04年の民主党予備選挙に教訓を読み取ろうとする候補者がいる一方で、同じ予備選挙の歴史にすがろうとする候補者もいる。今回の発表がとりわけ悪いニュースだったマケインである。

マケイン陣営は、第2四半期の献金額が1120万ドルにとどまったと発表した。目標は2000万ドルだったというのだから、随分と期待はずれな結果である(MacGillis, Alec and Dan Balz, "McCain Again Falls Short of Cash Goals", Washington Post, July 3, 2007)。それどころか、マケイン陣営は支出額が多いため、手元には200万ドルが残っているだけだという。マケイン陣営は、「今年中に1億ドル」という目標を取り下げ、大規模なリストラに踏み切った。陣営幹部は無給か減給。150人程度のスタッフのうち、50~100人は解雇される見込みだという(The Associated Pres, "McCain Cuts Staff Amid Poor Fundraising", New York Times, July 3, 2007)。

しかしマケイン陣営は選挙戦からの撤退は否定する。頼りにするのは、04年予備選挙でケリーが見せた復活劇である(Cummings, Jeanne and David Paul Kuhn, "Money woes signal McCain malaise", Politico, July 2, 2007)。03年の第3四半期には、ケリーはディーンに献金額で3倍の差をつけられていた。ニューハンプシャーやアイオワなどの世論調査も調子が悪く、評論家筋では「ケリーは終わった」なんていう評価が出始めていた。さらに年末には、自宅を担保に借金までして選挙資金を工面せざるを得なかったのである。

マケイン陣営は、当時のケリー陣営と同じ戦略を採用しようとしている。序盤戦での勝利に全力を尽くすのである。ケリーと同様に、マケインも他の候補と比較すれば経験などの点に強みがある。有権者がその点に気がつきさえすれば、復活はあり得る。そんな期待にかけるしかない(MacGillis et al, ibid)。

しかし、マケインとケリーというのも、考えてみれば皮肉な組み合わせである。マケイン陣営は、献金集めに苦労している理由を、人気を省みずに正しいと思った政策を貫く姿勢に求めている(Cummings et al, ibid)。まず、移民改革への支持が保守層を怒らせた。また、歳出削減へのあくなき戦いは、国防産業などの大口献金者との関係を悪化させた。さらに、イラク戦争への支持が、「一匹狼」としてのマケインを好んでいた無党派層からの献金を細らせた。だからといって、もっと巧みにflip-flopできていれば...というわけでもないのだろうが...

マケインの献金額を発表する電話会議では、回線待ちの間に不思議な音楽が流れていたという。「最善を尽くしたのに、十分ではなかったようだ。一度でいいから、何を間違い続けているのか突き止められないものだろうか」と歌うQuincy Jones & James IngramのJust Onceがあったかと思えば、B.B.KingのSince I Fell for Youには、「愛してくれたけど、次には冷たくあしらうなんて。でも僕に何ができるだろう」なんていう歌詞がある。さらには、Kenny RoggersのDon't Fall in Love with a Dreamerまでが流れたらしい(Milbank, Dana, "Shaking Up Is Hard to Do", Washington Post ,July 3, 2007)。

ちょっと出来すぎなような気もするが、なんとも上手くいかないときは上手くいかないものである。

2007/07/02

Women for Hillary…or else

民主党の候補者レースの先頭を走るヒラリー・クリントン。その頼みの綱は、女性からの支持である。

5月29日から6月1日にかけてWashington Postが行なった世論調査によれば、女性によるヒラリーの支持率は、51%に達している(Kornblut, Anne E. and Matthew Mosk, "Clinton Owes Lead in Poll To Support From Women", Washington Post, June 12, 2007)。オバマに対するヒラリーの15ポイントのリードは、全てこの女性票に負っている計算になるという。ニューハンプシャーなどの序盤に予備選が行われる州を筆頭に、民主党の予備選挙では、女性の存在感が大きい。ヒラリーが予備選を勝ち抜こうとするにあたっては、女性票は何よりの援軍なのである。

もっとも女性によるヒラリー支持には濃淡がある。まず特筆されるのは、黒人などのマイノリティ女性の支持である。ゾグビー社の調査によれば、ヒラリーに対するマイノリティ女性の支持率は、オバマへの支持率を25ポイントも上回っている(Kuhn, David Paul, "White women may be Clinton swing bloc", Politico, June 4, 2007)。この点について、ゴアの選対を仕切っていた黒人女性のダナ・ブラジールは、人種の違いもさることながら、黒人は馴染みのある人を支持しがちなのだと解説している。ただ最近では、黒人票一般ではオバマ支持が急増しているという調査もあり、5月までのデータをもとにしたゾグビー社の評価は、少し古くなっているかもしれない。

オバマとの関係でいえば、女性からの支持についても、一般の有権者の場合と同じように、学歴とのリンクが見られるのも興味深い。前述のWashington Postの調査によれば、高卒までの女性では、ヒラリー支持が61%に達しており、オバマに対する支持(18%)を大きく引き離している。しかし大卒女性となると、ヒラリー支持(38%)とオバマ支持(34%)の差は格段に縮まる。

こうした学歴での濃淡と少し関連がありそうなのが、いわゆるフェミニストの間に、ヒラリーに対する複雑な感情がある点である(Chaudhry, Lakshmi, "What Women See When They See Hillary", The Nation, June 14, 2007)。同じフェミニストでも、ヒラリーを支持するのは、エミリーズ・リストなどの、どちらかといえば中道寄りの団体である。一方、Code Pinkなどの急進的な団体は、むしろヒラリーに敵対的ですらある。その背景には、ヒラリーの政策が必ずしも「急進的」ではないことへの落胆があるといわれる。急進的なフェミニスト達には、女性が大統領になれば、世の中は劇的に変わるという期待がある。しかし実際に大統領の座に近付きつつあるヒラリーは、既存の秩序に適応しながら伸し上がってきた。恐らくヒラリーが大統領になっても、フェミニストが夢見るようなアジェンダが一気に進むわけではない。にもかかわらず、女性大統領が誕生したのだから、フェミニズムの役割は終わったなどといわれかねないのが現実である。

彼女達は、ヒラリーが「ガラスの天井」を突破るだけでは意味がないと感じている。そもそもブッシュ政権では、ライス国務長官を筆頭に、高い地位に登用された女性が少なくなかった。それでは、ブッシュ政権は、フェミニズムにとって良い時代だったろうか?

一方のヒラリーも、フェミニスト的な立場を強調しているわけではない。むしろヒラリーが売り込もうとしているイメージは、「母親」としてのそれである(Kuhn, David Paul, "Hillary rallies women's support", Politico, June 4, 2007)。ファーストレディ時代のヒラリーは、「私は家にいてクッキーを焼いているような女性ではない」という有名な発言で、世の中の主婦層の怒りを買った。「母親」を強調する最近のヒラリーは、まるで当時の失敗を埋め合わせようとしているかのようである。

「最初の女性大統領」を目指しながら、なぜヒラリーは「フェミニストの候補」になろうとしないのか。2つの視点がある。

第一に、予備選に関していえば、ヒラリーにとって、「最初の女性大統領」という目新しさを切り札にするのはリスキーである。ヒラリーといえども、「新しさ」という点では、オバマにはかなわないからだ。むしろヒラリーが売りにできるのは、「経験」がもたらす安心感であり、急進的な主張との相性は微妙である(Cottle, Michelle, "Woman on the Verge", New Republic, June 8, 2007)。

第二に、本選挙を睨むと、ヒラリーには保守的な白人既婚女性票にも食い込む必要がある。民主党は男性票で共和党に遅れを取り易い。このため、民主党の候補が大統領選挙に勝つには、女性票で圧倒する必要がある。ヒラリーとしても、民主党支持者の女性票だけでは心許無い。

そこでヒラリー陣営が狙っているのが、白人の既婚女性票である。白人女性は、クリントン大統領でも、過半数を取れなかったグループである。ゾグビーの調査でも、白人女性全体では、ヒラリーよりもマケインやジュリアーニの方が人気がある。ヒラリーが「母親」を強調している背景には、こうした白人女性票を獲得するための、本選挙に向けた思惑がある。

このように、女性票といっても様々である。女心と…という言葉もあるが、その支持をいかにつなぎ止め、広げて行くかが、ヒラリーが「初の女性大統領」にたどり着くための、重要なチェックポイントになりそうである。