2007/05/03

ルービノミクス論争と「僕らの時代」

むちゃくちゃ古いが、オフ・コース(!?)に「僕らの時代」という歌がある。今やそれなりに年を重ねた小田和正氏は、いったいこの歌をどう思っているのだろう。

民主党の経済政策の先行きを巡る「ルービノミクス」論争。どうやらそこには、「世代」の視点もありそうだ。

このページではお馴染み(?)のDavid Brooksが、「消えゆくネオ・リベラル」というコラムを書いている(Brooks, David, "The Vanishing Neoliberal", New York Times, March 11, 2007)。

Brooksの定義によれば、ネオ・リベラルは、80年代に「民主党は利益団体の影響下から抜け出さなければならない」という問題意識で始まった一連の思想である。政策的には、利益団体を重視した政策を否定し、労組には懐疑的。ほどほどにリベラルで、外交面ではタカ派的。資本主義を肯定し、福祉国家の見直しを支持する。その思想を汲んだ政治家が、90年代までのゴアであり、クリントンである。経済政策の行方に関する現在の議論に則していえば、ルービノミクスもネオ・リベラルの系譜に連なっているといえるだろう。

Brooksは、ネオ・リベラルの退潮を、その中核的なオピニオン誌だったNew Republic誌の変容に見て取る。購読者の減少に直面していた同誌は、発行頻度を減らし、内容もリベラル寄りに軌道修正したらしい。同じくネオ・リベラルの中核だったWashington Monthly誌も、左に軌道修正して、購読者の減少に歯止めをかけたという。一方で、American ProspectやThe Nathionといったリベラル系のオピニオン誌は、順調に購読者数を増やしているようだ(Alder, Ben,"Neoliberalism Vanquished", American Prospect, March 11, 2007)。

Brooksは、こうした潮目の変化の理由を、主役となる世代の政治的な態度の違いに求める。ネオ・リベラルの主役は、現在40~60歳台。民主党が一党支配から没落していく過程の問題意識が原点にある。だからこそ、労働組合などに支えられた旧来の政治を離れようとした。しかし、現在のブロガー世代が政治に目覚めたのは、ギングリッチ革命が吹き荒れる90年代である。こうした新しい世代は、共和党に近づくことも辞さないネオ・リベラルには飽きたらず、共和党に負けない対決の政治を求めたというのである。

ちなみにBrooksは、新しい世代の政策的な志向はについては、ネオ・リベラル以前の旧来型のリベラル路線への回帰を指摘している。そのきっかけとなっがのは、外交面でのイラク戦争であり、経済面での賃金の伸び悩みだというのが彼の見立てである。

実際に、当のリベラル陣営であるAmerican ProspectのEzra Kleinは、ネオ・リベラルの問題点として、政治的な態度もさることながら、政策面の不備を強調する(Klein, Ezra, "Neoliberalism", American Prospect, March 12, 2007)。ネオ・リベラリズムは、労組などの利益団体から離れた政策を実現しようとしたが、彼らは利益団体が過激化していた理由となった問題を解決することはできず、それどころか、時にはそのような問題には関心すらないようにみえた。彼らは中間層に焦点をあて、何よりも教育や職業訓練を重視した。しかし、グローバル経済の残酷さに対処するという意味では、教育や職業訓練は「間違った神」だった。

こうした議論は、まさに労組=EPI系のルービノミクス批判と重なっている。

しかし、本当に若い世代は政策の面でルービノミクスに距離を置こうとするだろうか。理想を重んじる傾向があるのはわかるが、その一方で、グローバリゼーションの現実を理解しているのも、若い世代のような気がする。この辺りは、もう少し追いかけてみたいテーマである。

それはさておき、ブロガー世代が対決を求めているという指摘には同意せざるを得ない。思い起こされるのが、昨年の議会中間選挙での、リーバーマン上院議員の予備選である。同議員は、コネチカット州の民主党予備選で、ブロガー(ネット・ルーツ)の支援を受けた新人候補に敗れた。その時にネット・ルーツが盛んに主張していたのが、リーバーマンの問題は、その政策ではなく、共和党への融和的な態度だという議論だった。

やや議論が横に流れてしまった。いずれにしても、ルービノミクスを巡る論争は、かなり重層的な構造になっている。経済政策としての是非だけでは読み解けない。そんな議論なのである。

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