2007/05/14

通商合意:セーフティー・ネットは政治的にも必要だ

セーフティー・ネットと言えば、経済政策の文脈で語られるのが普通である。しかし、時には政治的な意味でのセーフティー・ネットが必要になる場合がある。

5月10日に下院民主党指導部とブッシュ政権は、通商政策での画期的な合意を発表した。具体的に合意されたのは、議会がFTAの承認を議論するための前提条件である。

主要な項目を上げれば、まず対象となるFTAは、条約の本文に、国際的に認められた労働・環境基準の遵守義務を書き込まなければならなくなった。また、通商による失業者の救済を強化するために、「戦略的労働支援・訓練イニシアティブ(SWAT)」が開始される運びになった。ここでは、職業訓練の充実や、転職の際にも企業年金や医療保険の継続を容易にすることなどが議題になるという。

今回の合意で米国の通商政策は、取り敢えずは膠着状態から抜け出せそうだ。昨年の中間選挙では、自由貿易に懐疑的な民主党の新人議員が多数当選した。勝利の立役者を自認する労働組合やネット・ルーツも、ブッシュ政権の自由貿易路線に変更を迫るよう、議会民主党に圧力をかけていた。

今回の合意によって、政権が進めてきたペルー、パナマとのFTAは、議会承認に大きく近付いた。コロンビア、韓国とのFTAについては議会内に反発が残っているが、それでも今回の合意は明るいニュースである。

もっとも重要なのは、目先のFTAもさることながら、今後の米国の通商政策の方向性への影響である。

ポイントは二つある。

第一に、今回の合意は、「自由貿易への政治的なセーフティー・ネット」である。

米国経済は自由貿易、もっと言えばグローバリゼーションの大きな恩恵を享受している。保護主義的な圧力や全般的な党派対立の厳しさにもかかわらず、民主党と政権が今回の合意にこぎ着けたという事実は、米国はグローバリゼーションに背を向ける訳にはいかないという現実を改めて明らかにした。

しかしながら、今の米国には、保護主義が高まる素地がある。有権者の経済的な不安だ。景気が拡大してきたにもかかわらず、実質平均賃金は遅れを取った。成長の果実は均等に分配されている訳ではなく、格差は縮まらない。教育や医療費の高騰も、中間層の暮らしには心配の種だ。さらにオフショアリングが、これまで成功への確かな道だと思われていた、高技術の仕事にまで広がってくる可能性がささやかれている。

経済的にいえば、こうした不安をもたらした現象の原因は、必ずしもグローバリゼーションというわけではない。しかし、グローバリゼーションは悪役としては分かりやすい。

米国が民主主義の国である以上、いくら自由貿易が経済にプラスだといっても、政治的な支持を失えば、ポピュリズム的な方向に傾斜せざるを得なくなるリスクがある。だからこそ、自由貿易の負の側面に気を配り、その利益を広範囲に行き渡らせるための方策が必要になる。その意味で、今回の合意は、「自由貿易への政治的なセーフティー・ネット」なのである。

第二に、こうした観点に立つと、今回の合意でもっとも大切なのは、「負の側面」への国内対策強化を謳ったSWATの部分である。

民主党と政権の交渉で、もっとも難航したのは、労働基準の部分である。しかしこれは長く続いてきた論争ではあるものの、その実、合意によってどのような経済効果があるのかは不透明である。むしろ労組などは、この問題を自由貿易に歯止めをかける口実に使ってきた側面があるかもしれない。

一方で、「政治的なセーフティー・ネット」として重要なのは、SWATとしてまとめられた国内政策の部分である。経済全体でみればグローバリゼーションはプラスだが、失業などの被害が発生するのも事実である。その部分の不安が低下すれば、国民がグローバリゼーションに積極的に向っていく土台になる。まして、教育や職業訓練などの点での国内対策は、グローバル経済における米国民の立場を強くし、その利益を広範囲に行き渡らせる要素になる。

今回の合意では、SWATがどのような内容になるのかは、必ずしも明確ではない。しかし、これが単なる一時凌ぎの言葉だけに終わってしまえば、米国の通商政策は、膠着状態に逆戻りする脆弱性を抱え続けることになる。

今回の合意は、終着点ではない。「自由貿易への政治的なセーフティー・ネット」作りは、ようやくその第一歩が踏み出されたところなのである。

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