2007/12/31

Gazillion Bubble Show

週末に家族を連れてGazillion Bubble Show というショーを見に行った。バブル、つまりは、いろんなシャボン玉を作る芸人の出し物だ。たかがシャボン玉といっても、600人弱の観客を相手にたった一人で1時間半飽きさせないのだからたいしたものだ。もちろん子供向けのショーだが、クライマックスに客席に大量のバブルが飛んでくると、大人も思わず笑顔で手を伸ばしてしまう。ナレーションでも言っていたが、バブルは子供だけのものではない。とても魅力的なのだ。

バブルの魅力は、その儚さと裏腹の脆い美しさにあるのだろう。細工の施されたどんなに頑丈そうなバブルも、必ず消えていく運命にある。解説では、バブルは極めて繊細なので、微細な埃によっても壊れてしまうと言っていたが、何千ものバブルの崩壊を見続けて気付いたのは、むしろ多くのバブルは自壊していくということだ。膨らんだバブルの下部には、次第に水分が集まってくる。自らの重みに耐えられなくなったバブルはやがて破裂する。その過程を美しく見せるには、演者もしくは観客が人為的にバブルを壊すしかない。

こちらのショーだけに、音楽やレーザー光線の演出などは華やかなもの。それでもバブルは消えていく。

仕事柄とはいえ、「何もバブルのショーを見に行く必要はないよな」と思ったのは帰り道になってからのこと。夕暮れ時に立ち寄ったロックフェラーセンターの展望台では、センターの建設は失業者救済に一役買ったという解説があった。

31日はこちらの仕事納め。といっても、通勤電車はさすがに空いている。

来年はどんな年になりますか。引き続き宜しくお願い致します。

2007/12/28

Method of Change : 60年代賛美論とオバマ

民主党の予備選挙におけるキーワードは、変化と実力である。政策論という点では、ニュアンスの違いこそあれ、有力な候補者の間に大きな違いはない。政策的に、さまざまな角度から亀裂が入っている共和党予備選挙とは対照的だ。有権者の現状に対する不満が強い中で、変化をもたらせる候補者は誰なのか。テロや戦争への懸念がくすぶるなかで、国を任せられる実力があるのは誰なのか。問われているのはこの2点である。米国の選挙はキャラクターで決まるという議論は、決して新しいものではない。ただし、今回の選挙の場合、一緒にビールを飲みたいのは誰か?というような問いかけは、あまり聞かれない。それだけシリアスさの強い選挙だということかもしれない。

変化といった場合に、各候補の差別化はどうなされるのだろうか。分かりやすいのが、ヒラリーによる定義づけである。ある候補(エドワーズ)は変化を要求し(demanding it)、ある候補(オバマ)は希望するが(hope for it)、自分はそれを実現するための方法を知っている(work for it)といういいぶりである。それぞれのセールスポイントを的確に言い表しており、攻撃された筈の各候補にしても納得してしまうのではないだろうか。

例えばエドワーズは、既得権者が話し合いだけで、進んで譲歩するわけがないと強調してきた。違いは乗り越えられるとするオバマの議論に対しては、ナイーブに過ぎるという批判がある。しかし、変化を実現するための方法論としては悪くないという指摘もある。議会の状況を考えれば、変化を立法で実現するには、共和党議員をある程度巻き込む必要があるが、融和の必要性を解けば、ためにする反論をある程度封じられる。加えて、融和論は無党派層にアピールするので、議会選挙でも民主党候補にプラスに働く可能性があるからだ(Schmitt, Mark, “The Theory of Change Primary”, The American Prospect, December 21, 2007)。

変化といえば、米国の広告業界では、60年代をテーマにした広告戦略がちょっとしたブームだという(Elliott, Stuart, “The ‘60s as the Good Old Days”, New York Times, December 10, 2007)。その特徴は、カウンターカルチャーや反戦運動など、ともすればネガティブなイメージが伴っていた出来事を、ポジティブな視点から取り上げる点にある。変化をもたらした時代として、60年代を評価するわけだ。その時代に人格を形成してきたベビーブーマーがターゲットなのは容易に想像がつくが、意外にその子供世代にも好評だという。

興味深いのは、60年代賛美の風潮とオバマの議論の関係である。既に触れたように、世代交代論はオバマの主張の主要な軸の一つである。オバマは、「自分たちはヒラリーが実現できない種類の変化を体現している。それは世代的な問題だ」と述べる。60年代から続く論争を戦いつづけている世代では、国を一つにまとめ上げて、変化を実現するのが難しいというわけだ(DeBose, Brian, “Obama confronts generation rifts”, Washington Times, November 8, 2007 )。

オバマの議論は、60年代の闘争を明示的に否定している。しかし同時に、現状維持に対抗して「変化」を求めるというスピリットでは、広告業界が感じ取っている60年代賛美論に相通ずる部分がある。この辺りが、オバマの特異な位置取りだ。

60年代とオバマの関係では、反戦の側面も忘れてはならない。現在の60年代賛美論の底流には、当時の反戦運動と現在のイラク戦争反対論の共鳴を指摘する向きがある。他方で、クリントン政権の中道路線を批判するリベラル派の勢力が、政策や主張の面ではどうみても中道派であるオバマ支持に回っている一つの理由は、イラク戦争に対する姿勢の違いだといわれる。ここでもオバマにとっては、批判の対象としている60年代のスピリットが追い風になっている。

体制に逆らい世代交代を訴えた世代が、同じような視点から交代を求められている。これも現在の米国の景色である。

2007/12/27

Start of Something New...

威勢の良いエントリーから早2か月弱。すっかり休眠状態にしてしまった。予想はしていたが、一度止まったものを再起動するのは思いの外難しかった。観客が去ってしまったフィールドへ戻る恐怖もあった。しかし、予備選挙まであと数日。いつまでも眠ってはいられない。新年と共にとも思ったが、そこはヘソ曲がりで、この妙なタイミングで戻ってみようと思い立った。

というわけで、Long Island Rail Roadに揺られ、Led Zeppelinのリユニオンを聴きながら、myloを叩く自分がここにいる。通勤時間に書き込むというスタイルは変えたくないが、こちらの携帯では日本語が打てない。新しいツールで新しいフィールドを作るのも悪くないだろう。そうすれば彼らはやって来る、かも知れない。

再開にあたって、これからの選挙戦を見ていく自分なりの視点を整理しておきたい。それは、選挙の結果によって変わるものと変わらないものの見極めである。

民主党が勝つか、共和党が勝つかによって、政策の方向性に違いが出るのは当然だ。しかし、いずれの政党が勝つにしても、ブッシュ政権の8年間が終わるだけで、米国は変わらざるを得ない。勝者の如何を問わず、向かっていく方向性はないのだろうか。言い換えれば、分裂した米国の修復が始まる可能性である。

米国の分裂が言われて久しい。最近の米国では、その理由を問い、先行きを憂慮する論調が少なくない。例えば12月1日のNational Journal誌は、党派対立に焦点をあてた特集("Partisan Impulse")を掲載している。そこでは、議会関係者の多くが、クオリティの高い立法活動には超党派の協力が望ましいと考えつつも、一方で早晩には党派対立は緩和しないと考えていると報じられている。

また、最近話題を呼んでいるのが、Ronald BrownsteinのThe Second Civil War - How Extreme Partisanship has Paralyzed Washington and Polarized Americaである。2007年11月3日号のNational Journal誌に掲載された同書の抜粋(Brownstein, Ronald, "From a Uniter to Divider", National Journal, November 3, 2007)によれば、Brownsteinはブッシュ政権が党派対立の先鋭化に走った理由を4点指摘している。第一に、ブッシュ大統領がテキサス州知事時代に築いたような、民主党関係者との親密な人間関係が築けなかったこと。第二に選挙戦略。Uniterとして臨んだ2000年選挙が接線に終わった結果、ブッシュ陣営は保守層を重視するいわゆるBase Strategyに傾斜した。第三に大統領としてのビジョン。ブッシュ大統領には「正しいことを実現するのが大統領である」というビジョンがあり、超党派の声を重視するという志向がなかった。第四に政策目標。ブッシュ大統領が目指した政策は、レーガン大統領よりも一貫して保守主義の原則に従っていたとBrownsteinは指摘する。

もっとも、このうち第四の保守主義の部分については、必ずしも納得的とはいえない部分がある。確かに結果からみれば、ブッシュ政権の業績は保守主義の伝統に忠実である。しかし、ブッシュ大統領が提唱した「思いやりのある保守主義」や「オーナーシップ社会」といた概念には、伝統的な保守主義の考え方とは相容れない部分がある。レーガン政権以来の米国は「小さな政府」の方向性にあると総括できるが、その一方で政府の役割を問い直す動きも、クリントン政権からブッシュ政権にかけて続いているように思われる。選挙戦略のような政治的な思惑を別にすれば、ブッシュ政権の政策の中にも、党派対立の収束につながるヒントは隠されていると見るべきだろう。

分裂は政治に限らないという指摘もある。David Brooksは、ポピュラーミュージックの細分化を指摘する(Brooks, David, ”The Segmented Society”, New York Times, November 20, 2007)。ストーンズやスプリングスティーンのような、幅広い音楽のエッセンスを吸収し大衆に訴えかけられるようなアーティストは、U2を最後に出てこなくなった。技術の発展によって、レコード会社が聴衆を細分化し、それぞれの嗜好に合った音楽をマーケティングしやすくなったのが一因だ。ラジオ局も専門化が進んでいるから、例えば今ストーンズが売り出そうにも、取り上げてくれる番組がない。

Brooksは、政治をはじめとして、格差や移民問題など様々な分野で、分裂を憂う声を良く聞くようになったと指摘する。技術発展と商業化は、分裂を促進する要素になっている。ストーンズが黒人音楽に学んだように、かつて音楽は人や文化をまとめる役割を果たしてきた。しかし、そこですら状況は変わっている。

イラク後の外交政策や、グローバリゼーション下の経済政策といった点で、米国はその立ち位置を問い直さなければならない時期に差し掛かっている。果たしてこうした大きな節目に、米国は何らかのコンセンサスにたどり着けるのだろうか。たどり着くとすれば、そこにはどんな風景があるのだろうか。道筋はどうなるのだろう。

その曙光は見えないだろうか。

正直なところ、ニューヨークではまだ選挙の雰囲気などほとんど感じられない。確かにクリスマスに招かれた友人宅で、「えっ、あのフレッドトンプソンが大統領選挙に出ているの?」みたいな話題はあったけれど、High School Musicalや、数日後に迫ったHannah Montana / Miley Cyrusのコンサートの話題の方がよほど盛り上がる。そんな中だからこそ、見えるものもあるかもしれない。日本にいたときのような頻繁な更新は難しいかもしれないが、しばしお付き合いいただければ幸いである。