2007/07/08

Sad Songs (Say So Much):黒人がオバマに投影する「現実」

ヒラリーとフェミニストの微妙な関係について触れたことがある。同じように微妙な関係は、オバマと黒人の間にも存在する。そんなことを再認識させられたのが、Washington Postに掲載されたあるコラムだ(Luqman, Amina, "Obama's Tightrope", Washington Post, July 6, 2007)。

このコラムによれば、黒人の支持者がオバマのパフォーマンスから感じるのは、誇りであると同時に痛みでもあるという。仲間が権力の頂点に挑戦しているという事実がある一方で、黒人が米国社会で信頼され、受け入れられるためには、何が必要なのかが白日の下に晒されるからだ。

ジェシー・ジャクソンや、アル・シャープトンといった過去の黒人候補者は、何よりも黒人の代表であるというイメージを重視した。しかしオバマは、あからさまに黒人の肩を持ったり、白人を攻撃したりはしない。むしろ、過去の責任を問わなくても、共に成長していける筈だというのが、オバマのメッセージである。

こうしたオバマのスタンスは、本気で大統領を目指す候補者としてのそれである。そもそもジャクソン達の頭には、大統領になれるなどという発想はなかった。むしろ彼らの狙いは、黒人の支持を固めて、民主党の中でキャスティング・ボートを握り、その方向性に影響を与えることだった。しかし本当に大統領になろうと思うのならば、黒人票だけでは不十分である。だからこそオバマは、黒人であるという事実を慎重に扱わなければならない。これがヒラリーであれば、正面から黒人の味方であると強調しても、大した問題は生じない。しかし、6月28日の候補者討論会でのヒラリーのように、オバマが「HIV-AIDSが白人女性の問題だったら、今頃大騒ぎになっている筈だ」などと発言すれば、それこそ大騒ぎになってしまう。

黒人層にすれば、オバマに黒人ならではの不満や怒りを代弁してもらいたいのは山々である。しかし彼らのジレンマは、そうなれば当選できそうな黒人候補者を失ってしまうことにある。

このコラムは、オバマが演じている綱渡りは、黒人が日常的に演じている事柄だとも指摘する。ヒラリーに対するフェミニストの感情には、「憤り」とでも表現できるような雰囲気がある。これに対して黒人のオバマ観には、哀しみの色彩が感じられてしまうのである。

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