2007/06/16

The Plan Revised:オバマの変わる勇気

オバマの弱点は実績不足だといわれる。それは、やむを得ない話である。何しろ、この時点での出馬は、当初の計画にはなかったからだ。

オバマが大統領を狙っていなかったというわけではない。あくまでも、タイミングの話である。

2004年の選挙で上院議員になったオバマが、最初にスタッフと思い描いた数字は、「2010-2012-2016」だったという(Dorning, Mike and Christi Parsons, "Carefully crafting the Obama 'brand'", Chicago Tribune, June 12, 2007)。2010年には上院の再選かイリノイ州知事を目指す。その後で、早ければ12年、遅くとも16年には大統領選挙に出馬するというロードマップである。

オバマが「慎重」な計画を立てたのは、実績不足を自覚していたからだ。2004年の民主党大会の演説で、一躍全米クラスの知名度は得た。しかし、このままでは、「人気先行」、場合によっては「目立ちたがり」と批判されかねない。

上院議員1年目のオバマは慎重だった。全国ネットのテレビ取材は極力断る。上院に溶け込み、味方を増やし、地元に貢献することが優先である。同僚の献金集めに汗を流し、公聴会には最初から最後まで出席して、じっと発言の順番を待つ。持論がある筈の、イラク戦争や最高裁判事指名といった論点でも、目立った発言はしない。一方で、地元をくまなく見て回り、石炭産業のメリットになるように、石炭液化への補助金獲得に奔走する。

同時に、政策に関する幅広い知識の習得にも努めた。オバマは、立法担当だけではなく、政策担当のスタッフを採用する。新人議員では珍しいことだという。その狙いの一つは、幅広い専門家を集めた勉強会を組織することだった(Smith, Ben, "Obama kept friends close, enemies closer", Politico, June 12, 2007)。

エネルギーや対中貿易といったテーマ別に開催された勉強会では、オバマは政策の細部だけでなく、その政治的な意味合いについても、並々ならぬ関心を示したという。薄い国政の知識を補うには、絶好の機会だった筈である。

こうした慎重なプランニングは、ヒラリーの辿ってきた道と酷似している。2000年の選挙でのヒラリーの当選は、当時の民主党にとって、唯一といって良い程の稀なグッドニュースだった。それでも1年生議員のヒラリーは、目立たないように心掛けた。先輩議員にスポットライトを譲り、ニューヨークのために尽くす。そして、2006年に再選を果たした上で、初めて大統領選挙に出馬した。

オバマが「慎重」な計画を見直したのは、昨年の中間選挙の辺りだという。自著のブック・ツアーが好調だったのに加え、イラク戦争批判が高まった。イリノイ州の先輩であるダービン上院議員は、「こんなチャンスは一生に一度、良くても二度しか巡ってこない。真剣に考えた方がいい」と助言したそうだ(Dorning, ibid)。

実は自分には、今でもヒラリーは2004年の大統領選挙に出馬すべきだったという思いがある。プランを守るべきか、それとも見直すべきか。それぞれの決断の結果は、やがて明らかになる。

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