2007/03/28

What It Takes...オバマ in ハワイ

大統領選挙は、全人格をかけた勝負だ。全人格をかけられる者にゴールにたどり着く権利が与えられる。それはある人にとっては覚悟だろうし、場合によっては、自然な心の動きかもしれない。

今回の選挙で、生い立ちを含めたキャラクターがもっとも注目されているのは、間違いなくオバマだろう。同じ民主党のトップランナーでも、ヒラリーのストーリーは余りに良く知られている。なにせクリントン大統領の自伝(My Life)とヒラリーの自伝(Living History)を両方読めば、裏表から知ることができてしまう。

まして、オバマは生い立ちを選挙戦のストーリーに組み込んでいる。ケニア人とアメリカ人の間に生まれ、ハワイやインドネシアで子ども時代を過ごす。様々な環境で、黒人としてのアイデンティティーを問い続けながら、シカゴで政治活動に身を投じた。だからこそ、世代や人種、党派や信条の差を乗り越えた新しい政治が出来る。政策面での実績が希薄なだけに、オバマにとっては、生い立ちを織り込んだストーリーは最大の拠り所だ。

だからこそ、そのパーソナルな自分史がメディアの精査を受けるのは、当然の展開である。そのオバマの自伝、Dreams of My Fatherを地元のChicago Tribune紙が再検証している(Scharnberg, Kirsten and Kim Barker, "The not-so-simple story of Barack Obama's youth", Chicago Tribune, March 25, 2007)。

同紙が注目したのは、オバマが黒人としての苦悩に目覚めたとされるインドネシアとハワイでの少年時代。当時を知る関係者へのインタビューなどによれば、自伝の記述には事実に怪しい部分があるという。

同紙は、「(事実の書き替えは)時にオバマを良く見せ、人種に関する葛藤を誇張し、もっとも辛い個人的な問題を隠している」と指摘する。インドネシアでオバマが衝撃を受けたという、皮膚の色を変えようとする黒人を取り上げた雑誌(Life? Ebony?)は存在が確認できない。ハワイではアウトサイダーとして苦悩していたというが、周囲からはバスケット好きなハッピーな少年という印象が残っている。人種的な疎外感も手伝い、黒人でまとまっているグループは確かにあったが、オバマはその一員ではなかったし、友人には人種に関してオバマと議論した記憶がない。

もっとも、同紙のトーンは、自伝の詐称を批判するようなものではない。むしろ、これらは子ども時代の記憶にありがちな齟齬だし、オバマは孤独を周囲から隠そうとしていたようだとも指摘する。後者については、同じくオバマのハワイ時代を取り上げたNew York Timesの記事も同様の主張だ(Steinhauer, Jennifer, "A Search for Self in Obama’s Hawaii Childhood", New York Times, March 17, 2007)。加えてNew York Times紙は、ハワイは人種が入り乱れているだけに、自らのアイデンティティーの問題に直面している人が多く、他人(オバマ)の悩みにまで気がつく余裕がないとも指摘している。

つまり、日本で良く話題になる政治家の学歴詐称とは質が違う。

もっとも、オバマにも頂けない「事実誤認」はある(Tapper, Jake, "Ah've come toooo fahhhr", ABC News, March 05, 2007)。

3月4日にオバマはアラバマ州のセルマを訪れた。公民権運動の大きな契機になった、1965年の「血の日曜日」事件を記念する行事に参加するためだ。そこでオバマは、自らの出生をセルマに結び付ける演説を行なった。「(黒人の父親と白人の母親は)それまでであれば、結婚して子どもをもうけるなんて不可能だったが、セルマの事件をきっかけに時代が変わり始めていると感じた。だから二人は一緒になり、自分が生まれた」。感動的なストーリーだ。

但し、オバマが生まれたのは、「血の日曜日」の4年前のことだ。

…いくら何でも、それはないだろう。

それはさておき、Tribune紙の着目点は、オバマの本当の葛藤(「辛い個人的な問題」)は、人種ではなく、父親と別れて暮らさなくてはならなかった「家族の離散」だったのではないかという点にある。いくら本人が隠そうとしても、容赦なく抉られてしまうのが、大統領選挙なのである。

そして、こうした事実を誰よりも理解し、場合によっては利用できる者が選挙を制する。それが計算であろうが、本能であろうが。

個人的なストーリーと選挙が切り離せなくなっているのは、夫人の癌再発を公表したエドワーズも同じだ。もちろん、そこに政治的な計算を見出だそうとするのは、余りに酷だ。一方でエドワーズは、3月25日の60 Minutesのインタビューで、「全ての候補者には、それぞれがどのような人物であるかを示唆する個人の暮らしがある。それを有権者が評価するのは公正なことだ」とも述べている(Crawford, Craig, "Edwards Gets Personal", CQ Politics.com, March 26, 2007)。

オバマの自伝に対しても、パーソナルなストーリーを求められる政治家としての自意識が働いているという指摘がある。Washington Post紙のRichard Cohenは、「(オバマは)むき出しの野望を大義のベールに隠そうとして、事実を改ざんしたのかもしれない。もはや米国の公的な世界では、単なる野望は受け入れられないからだ」と述べている(Cohen, Richard, "Obama's Back Story", Washington Post, March 27, 2007)。

特筆すべきなのは、"Dreams"は大統領選挙に向けて書かれた本ではないという事実だ。

オバマが"Dreams"を書いたのは34歳の頃である。Cohenは、その頃からオバマには、「自分を上手くパッケージする」意識があったのではないかと指摘する。

Cohenはオバマとレーガン元大統領を重ね合わせる。レーガン元大統領は、人生は映画のように語られなければならないと本当に理解していた政治家だからだ。「(レーガンは)常に自分の映画を演じていた。オバマも同じだ」。

そもそもオバマは、3年生の作文に将来の夢を「大統領」と書いていたという(Scharnberg, ibid)。

やはり大統領を目指す人物は、常人とは何かが決定的に違う。

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