ぼくはクリントンを知らない
米国の政策や政治とつきあう商売をしていると、自分がクリントン(ヒラリーじゃないです。ビルです)の全盛期を知らないのが、とてつもないディスアドバンテージに思えることがある。自分が米国と付き合い始めたのは、94年ごろだったろうか。既に「ホープという街から来た男」は大統領になり、ヒラリー・ケアは挫折に向かっていた。ギングリッチ革命には間に合ったような気はするが、初心者には重大さが理解できなかった。ようやく物心ついたのは、モニカ・ルインスキーの頃だろうか。
そしてまた同じ感覚に襲われる出来事があった。バラク・オバマである。
2月12日にバラク・オバマ上院議員は、イリノイ州スプリングフィールドで大統領選挙への出馬を表明した。その最大の売りは、「世代交代」だろう。オバマは主張する。米国の党派対立は行き過ぎている。対立の根源は60年代にさかのぼる。国がまとまるには、しがらみのない新世代が必要だ。
米国では1946~64年生まれをベビー・ブーマーと呼ぶ。61年生まれのオバマはベビー・ブーマーの最後尾に位置する。一方で、第43代大統領であるブッシュや42代のクリントン(ビルです。しつこいですが)は、いずれも1946年生まれ。ベビー・ブーマー世代の先頭だ。もちろん、44thを目指すオバマの標的は42ndでも43rdでもない。しかし、もう一人のクリントン、ヒラリーの生まれも1947年。しっかりベビー・ブーマー先頭世代である。
こうした「世代交代論」が思い起こさせるのが、クリントンだ。クリントンは、ベビー・ブーマー世代の代表として、「変化」を訴えた。今日の米国にも、同じように「変化」を求める胎動があるように思われる。
しかし、「クリントンを知らない」ことが悔やまれるのは、両者に共通する「強み」が理由ではない。オバマの「弱み」の度合いを知る手がかりが欲しいからだ。それは、いわゆる「政策論の欠如」である。オバマを批判する陣営は、経験の浅さをつく。この点では、アーカンソー州知事を経験したクリントンは一枚上手だろう。しかし、経験不足論の発展形である、「政策に具体論が欠ける」という点はどうだろう。
たしかにクリントンには、Putting People Firstというマニフェストの権化みたいな本がある。It's Economy, Stupid!にしても、なんとなく政策通の雰囲気がある。しかし、今のオバマのように、大統領選挙の1年以上前の時点で、どれほどの政策がクリントンにあったのだろうか。また、選挙戦中のクリントンの公約と、当選後の実際の政策に大きな差異があるのも周知の事実だ。中間層向け減税は、増税を含んだ財政再建策に化けている。果たして、クリントンの政策はどれくらいの重さだったのだろう。
オバマをみていると、「トリック・スター」という言葉を思い出す。その本質をどこで見極めれば良いのだろうか。正直言って手がかりに困っているのが現状だ。
ところで、オバマは自分の政策は十分具体的だと主張している。最新の著作であるAudacity of Hopeを読めばわかると。白状すれば、自分もまだこの本を読んでいない。まずは、Dreams of My Fatherを読まなければと思ったからだ。ケニア人のイスラム教徒と、カンサス生まれのキリスト教徒に生まれたオバマの自分探しの自伝である。米国では、「オバマは十分に黒人か?」という議論もあるようだが、Dreams of My Fatherには、いろんなヒントが隠されている。何より、自伝はマニフェストより数倍面白い。政策を分析する立場にある自分がいうのも何だが。
でも、読み終わるまでにはまだ時間がかかりそうだ。なんといっても480頁もあるのだ。
選挙までにはまだ1年以上ある。自伝をゆっくり読んでから、政策論に移っても遅くない。それが美しい姿なのかもしれない。しかし今回の選挙戦はものすごい速さで進んでいる。早くもオバマの政策が問われてしまっているのも、こうした選挙の特徴のせいかもしれない。
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