2008/01/07

The Way She Lose

涙ぐんだ(ように見えた)だけでニュースになるなんて、と思う向きもあるかもしれない。しかし、大統領選挙を勝ち抜くというのは大変な話なのである。

ニューハンプシャーのイベントで、ヒラリーが涙ぐんだという報道があった。「どうやって毎朝起き上がって戦い続けられるのか?」という問いに対して、「簡単ではない..正しいことだと心から信じていなければとても続けられない」と答えた時のことだ。友人によれば、ヒラリーが公の場で涙をみせるのは10年に一度の出来事だという(Healy, Patrick and Marc Santora “Clinton Talks About Strains of Campaign”, New York Times, January 7, 2008)。

ヒラリーの選挙戦については、「人間らしさ」をもっと出すべきかどうか、といった議論があった。政策通の部分を強調するヒラリーは、時に有権者とのつながりに欠けるように映る。その一方で、女性として大統領を目指す以上、感情的な弱さはみせるべきではないという指摘もあった。しかし、今回の出来事は、こうした方法論を超越した瞬間だったように思えてならない。大統領選挙というのは自らの全人格をさらけ出す戦いである。メディアや対立候補には叩かれつづけた上に、結果は残酷なまでに明白に出てしまう。勝利にたどり着けなければ、自らの人格を米国民に否定されたように感じてしまってもおかしくない。

どうやって続けられるのか。ヒラリーにとっては厳しい時間帯である。

ヒラリーの置かれた状況の厳しさを最も的確にあらわしているのは、誰あろうヒラリーの発言である(Simon, Roger, “Can you win on dull?”, Politico, January 7, 2008 )。ヒラリーは「キャンペーンは詩だが、施政は散文である」というクオモの発言を引用する。「(オバマが)人々を感動させる演説ができるのはすばらしいが、カメラが去った後で、タフな決定を行えるのは自分だ」。そんな自負である。実際に、最近のオバマの演説は、細かい政策にはほとんど触れず、「融和」「変化」といった大きなメッセージで聴衆を盛り上げる。一方のヒラリーは、広範囲な政策分野での提案を次から次へと披露する。

もっとも、有権者は必ずしも政策通を好むわけではない。むしろ時に「詩」を求めるのが現実である。「オバマの訴える変化には中身がない」という意見もないわけではないが、それをかき消すだけの熱気が今のオバマにはある。「変化」の形容といい、ヒラリー陣営の状況の表し方は見事というほかは無いが、皮肉なことに、そこで切り取られた状況が示すのはヒラリーの苦境である。

ヒラリー陣営には、ニューハンプシャーの先行きを案ずる向きがあるようだ(Allen, Mike and Ben Smith, “Hillary advisers fear N.H. loss”, Politico, January 6, 2008)。アイオワでヒラリーが獲得した支持は、従来の年であればトップになるのに十分だった。しかしオバマの動員力はすさまじかった。ニューハンプシャーでも同じ現象が起きれば、ヒラリーの勝利は遠くなる。さらにヒラリー陣営には、ニューハンプシャーでの敗北は、サウスカロライナでの敗北につながるという覚悟がある。オバマが勝てる可能性が見えてきた中で、黒人票が急速にヒラリーから離れているからだ。勝負となるスーパーチューズデーまでに、ヒラリーが明示的に立ち直りを示せる機会はおそらくない。

ニューハンプシャーで敗北した場合には、ヒラリー陣営は何らかの「動き」を見せる必要に迫られるという見方もある。トップの交代というのは常道だが、ヒラリー陣営のトップは長年の腹心であり、これを切るのはヒラリーらしくない(世論調査担当のマーク・ペンはずいぶん批判されているようだが...)。ゴアは選挙対策本部をワシントンからテネシーに移したが、ヒラリーが事務所をニューヨークに移してもインパクトが無い。Politico紙は「名前の通った人間(クリントン政権関係者)をスタッフに加えるのではないか」と指摘するが、有名どころの多くは既にヒラリー陣営にいる。今になって新たに誰がヒラリー陣営に乗り込んでくるだろうか(ゲームを変えるとしたらゴアだが...)。

「負け方」が問われるというの辛いものである。

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