2007/10/05

Dazed And Confused : 詳細な医療保険改革案の罪

今週末は最初の引越しである。勢い資料の整理を迫られているのだが、いやはや資料を捨てるのは辛いですね。これであれをやる筈だったとか、いろいろ考えてしまう。

というわけで(?)、しばらくは折りに触れて、取り上げた損ねた報道を備忘録的に記す機会が多くなりそうである。それはそれで、新しい発見もあり面白い。

今回は、医療保険改革の詳細を示すことの是非に関する議論である。筆者のマーク・シュミットは、2000年の大統領選挙で民主党のブラッドレー候補の陣営に属していた。その経験からのアドバイスは、「詳細な改革案は示すべきではない」というものだ(Schmitt, Mark, "Too Much Information", New York Times, July 24, 2007)。詳細な政策提案は、細部だけを取り上げた候補者批判に使われる以外は、ほとんど関心を集めることがない。2000年の選挙でブラッドレーは、対立候補のゴアに負けない詳細な改革案を提示したが、ゴア陣営による技術的な細かい批判に切り刻まれてしまった。結局のところ、ブラッドレーのためにも、国民皆保険制実現のためにもならなかったというのである。

シュミットは2つの理由をあげて、予備選期間中の提案は候補者が大統領になった後に実現できる改革とは全く関係がないと指摘する。第一に、この頃の提案は、新しい大統領が誕生する頃には忘れ去られてしまう。1992年の大統領選挙に出馬したボブ・ケリー上院議員は、予備選挙中には左よりの提案をしていた(シングル・ペイヤー)にもかかわらず、実際に当選したクリントン政権がそれよりも中道寄りの提案(もう一人の候補だったソンガス案に近い)を発表したところ、今度は右側からこの提案を批判したという。第二に、大統領は独断で政策を実現する権限がない。実際の政策を決定するに当たっては、議会での審議が必要である。さらにシュミットは、選挙期間中に若輩のアドバイザーが徹夜でピザを食べながら作ったような改革案が、連邦政府・議会が総力を挙げて検討した改革案にかなうわけがないと指摘する。

シュミットは、民主党の支持者はプラン自体ではなく、「プランという考え」に取り付かれており、プランが詳細であるほど、その候補者が本気であると思い込みがちだと指摘する。しかし、この時点での改革案に実現の可能性がない以上、支持者に必要なのは、候補者のキャラクターをしるための手がかりだけだ。したがって候補者は、改革の原則とその理由、そして基本的な目標をすめば十分だというのが、シュミットの主張である。

ヒラリーはかつて討論会で医療保険改革に触れて、「もっとも大事なのはプランではない。私達はほとんど同じようなことを提案している。大切なのは、政治的な意志があるかどうかだ」と述べている。シュミットは、このラインで十分なはずだと述べている。

もちろんこの記事が発表された後に、ヒラリーは詳細な改革案を発表した。それどころか、アイディアの無さを揶揄された共和党陣営も、それなりの改革案を発表しているのが現状である。しかし、米国の医療保険制度の実態は、多少知識がある人間でも眩暈をおこすほど複雑だ。勢い、実際の改革案の本質から離れた単純な批判の方が受け入れられやすくなる素地は十分にある。ことが「政府のあり方」のような抽象的な問題にもつながってくるからなおさらである。詳細な改革案の戦いが、本当に改革のためになるのかどうかは、選挙戦の騒乱が静まった後に初めて明らかになるのかもしれない。

0 件のコメント: