2007/10/12

トンプソンの経済政策:What Me Worry?

トンプソンの経済政策にちょっとした関心が集まっている。遅れて参戦した同候補が、少しづつ経済政策の内容を明らかにし始めたからだ。もっともその速度は極端なまでに「少しづつ」であり、民主党ほどの詳細さは望めない。それどころか、他の共和党の有力候補者も含めて、国民感覚との乖離が指摘されているのが現状である。

各紙がトンプソンの経済政策を探る素材の一つにしているのが、10月5日にAmericans for Prosperity Foundationで行われた講演である。といっても、全文を読んでもそれほどの内容があるわけではない。具体的な提案は以下の二つである。

第一は、税制について。もちろん、減税の重要性を説いている点は他の共和党候補と変わらない。ブッシュ減税の生みの親であるローレンス・リンゼーがアドバイザーであることを考えても、違和感はないところだ。むしろ目を惹くのは、法人税の引き下げが具体的に提案されている点である。トンプソンは、米国は94年以降に法人税を下げていない二つの国の一つであるとして、その最高税率を現在の35%から28%にまで下げるべきだと述べている(Shatz, Amy, "Thompson Turns to Taxes", Wall Street Journal, October 8, 2007)。第二は、公的年金改革について。トンプソンは給付額の算定基準を現在の賃金上昇率からインフレ率に変更すれば、向こう75年間の年金財政の問題は解決できるだろうと主張している(Talev, Margaret, "Thompson proposes slowing growth of Social Security benefits", McClatchy Newspapers, October 5, 2007 )。

いずれもサラッと触れられているだけだが、もう少し説明が必要だろう。まず法人税減税については、ロムニーやジュリアーニも賛同はしているが、具体的な税率までは示していないように思われる。またリンゼーは、輸出入の際の課税のあり方について、国境での調整が可能になるような方向での改革を示唆している(Schatz, ibid)。現在のWTOルールでは、EUのVATのような間接税は国境調整(輸出免税)が可能だが、米国の法人税のような直接税はこれが禁止されている。リンゼーは税の取り扱いを統一するような国際ルールの改正が望ましいとしながらも、それが無理なのであれば、米国が同じ土俵に上がる必要があるとしている。

次に公的年金だが、給付削減を正面から提案したというのは、それなりに大胆な行動だといえる。トンプソンが言うように、インフレ率調整への変更が実現すれば目下の年金問題は雲散霧消してしまう訳だが、給付額の水準は現行よりも50%以上少なくなる可能性がある(Talev, ibid)。これを補填するための民間貯蓄増進策などには言及がなく、いわば米国政治の「第三のレール」に思い切り抵触している。ちなみに、トンプソンの発言には、所得水準によってインフレ率との連動率を変えるという、ブッシュ政権も検討したProgressive Indexingを想起させるような部分もあるが、詳細は不詳である(Beaumont, Thomas, "Thompson open to changes in benefits to curb spending", Des Moines Register, October 3, 2007)。

トンプソンはもう一つの大きな義務的経費であるメディケアについても、給付水準の見直しをほのめかしている(Schatz, ibid)。まずメディケア本体については、所得水準によって給付内容に濃淡をつけるという考えがあるようだ。また、処方薬代保険には極めて批判的で、制度廃止の可能性も排除していない。

トンプソンの経済政策は、読み込んでいけばそれなりに大胆な内容である。しかし、演説を読んだ最初の印象は、何とも変わらない共和党らしい提案だということである。そこには、中間層の経済的な不安や格差の拡大、グローバリゼーションの負の側面といった問題意識は微塵も感じられない。あるのは、減税・歳出削減・小さな政府である。トンプソンの演説は、おそらく共和党の候補者ということであれば、8年前でも8年後でも通用する。ブッシュ大統領が同じ演説を行っても違和感はないだろう。むしろ年金給付金をバッサリと切り捨てる辺りは、ブッシュ政権よりも先祖帰りしている感がある。

こうした経済政策における不変性、言い換えれば「アナクロニズム」は、共和党の有力候補者にある程度共通している。10月9日に行われた、経済問題を主題にした討論会が好例である。ニューヨーク・タイムスのデビッド・レオンハートは、ミシガンという全米でも経済状況の特に悪い地域での討論会にもかかわらず、共和党候補者は米国人の経済的な不安感に触れようとせずに、減税・財政規律・規制緩和・自由貿易といった、数十年に亘って共和党が主張してきたのと何ら変わりのない経済政策を繰り返したとあきれる(Leonhards, David, "Atop G.O.P., It’s Always Sunny", New York Times, October 10, 2007)。ワシントン・ポストのスティーブン・パールスタインも「9人の候補者による2時間の討論会にはほとんど何も目新しいことはなかった」と切り捨てる(Pearlstein, Steven, "Two Hours, Nine Candidates, and Almost Nothing New", Washington Post, October 10, 2007)。さらに民主党系のメディアであるDemocratic Strategistのエド・キルゴアは、今回の討論会での議論は20年前なら当たり前だと受け止められていたような内容かもしれないと皮肉る。キルゴアは、一部の候補者による中国批判でさえ、中国を日本に置き換えれば20年前でも違和感はなかっただろうとまで指摘している(Kilgore, Ed, "Anachronisms", The Democratis Strategist, October 9, 2007)。

トンプソンも例外ではない。ニューヨークタイムスの社説は、「共和党の討論会をみていると、少なくとも有力な候補者達は別の宇宙に住んでいるかのように思われた」と指摘、それを何よりも印象付けたのが、経済を「ばら色だ」と断言したトンプソンだと書いている(editorial, "What, Me Worry?", New York Times, October 12, 2007)。同じくニューヨーク・タイムスのゲイル・コリンズも、トンプソンの討論会での発言を引用しながら、ミシガン州民の苦境にシンパシーを見せなかった点を疑問視する(Collins, Gail, "Calvin Coolidge Redux", New York Times, October 11, 2007)。コリンズは、米国民は富める者を敬う傾向にあるが、それも、どんなに恵まれていても一般国民の感情を理解していることが伝わってくるのが条件だと指摘する。これに失敗したのが2004年のケリーだが、少なくともケリーは「庶民的だから」という理由で候補に選ばれたわけではない。しかしトンプソンは、"Gucci-wearing, Lincoln-driving, Perrier-drinking, Grey Poupon-spreading millionaire Washington special interest lobbyist"という批判を封じるために、ピックアップトラックで州内を遊説するとうい仕掛けで、庶民的な魅力をアピールして上院議員になったはずだ。そんな部分がないトンプソンにどんな意味があるのだろう?

いくらメイン・ストリーム・メディアが左よりだといっても、ずいぶん強力な批判である。それでも共和党流の経済政策が選ばれるとするならば、米国の「小さな政府」志向はかなりの筋金入りと見ても良いのかもしれない。

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