2007/10/27

Gonna Be A Long Walk Home

福岡に来ています。ブッシュ政権下の経済についてお話させていただきました。渡米前最後の本格的なお仕事です。

会議を抜け出して、昔住んでいた街を約25年ぶりに訪れてみました。住んでいた社宅は取り壊され、跡地にはショッピングセンター。ラジオ塔だけが残っていました。

ちょうど中学に上る頃に移った街。これまでの蓄積が効かない所にほうり込まれ、子どもながらに転機でした。

帰り道。あまりの渋滞に、バスをあきらめて歩いた私鉄の駅までの道。30分ほどの道のりに、なぜか6年前の9月11日の朝に、あてもなく歩いた時を思い出しました。World Trade Centerからミッドタウンまで。とても気持ちの良い秋の日でした。

5日後には、4年半振りのニューヨーク。我が家への道程は遠そうです。

しばらくお休みしてしまっているTaste of Union。新しい街から再開します。今しばらくお待ちください。

2007/10/16

ポピュリズムと共和党

最近の民主党の方向性はポピュリズムへの傾斜と形容されることが少なくない。しかし米国の歴史においては、ポピュリズムは何も民主党の専売特許というわけではない。むしろ今の米国では、ポピュリズムの欠如が問題になっているのは共和党だというのが、外交評議会のピーター・ベイナートの意見である(Beinart, Peter, “The GOP's Fading Populism”, Washington Post, June 12, 2007)。

第二次世界大戦以来の共和党の最大の功績は、保守主義と反エリート主義を結びつけたことである。上流階級の思想と考えられていた保守主義は、ポピュリスト的な化粧を施すことで広範な支持を獲得する道を見出したのである。その発端はマーッカーシーによる共産主義批判(=エリート批判)やニクソンによる社会政策の争点化(=エリート、司法批判)であり、レーガンの大きな政府(=エリート、官僚)批判であった。

しかし、80から90年代にかけて共和党が政治的な成功を収めるに連れて、反エリート路線の標的を選びにくくなってきた。司法や官僚も右傾化し、福祉政策や犯罪対策の見直しも進んだからである。パット・ブキャナンは標的を企業エリートにすり替え、マケインはロビイスト批判を展開したが、これらはいずれも左派に対する攻撃というよりは、自らの支持基盤に矛先を向けるような議論だった。

こうしたなかでブッシュ政権は、イラク戦争を利用して保守主義にポピュリストの衣装をまとわせることに成功した。国が危険にさらされたときには、ポピュリズムは国を守る強いリーダーを求める機運につながりやすい。さらに国土安全保障の議論では、ブッシュ政権は盗聴権限の問題などを通じて、民主党を「大衆の安全よりも手続き論でテロリストの人権を尊重する知的エリート」として攻撃した。

ところがイラク戦争の泥沼化によって、こうしたブッシュ政権の路線も行き詰まる。イラク戦争の主眼がイラクの民主化に移ると、ポピュリズム的には事態の解決を担うのはイラク国民であるべきだということになる。米国内でテロが起きない以上、人権重視批判も緊迫感に欠ける。

共和党が選ぶ次のターゲットは何か。一つはブキャナン流の企業エリートである。ドバイによる港湾管理会社買収への反論が共和党サイドからも沸き起こったのがその表れだ。また、移民も新たなターゲットである。しかし移民に関しては、人権擁護派の民主党エリート批判であるだけでなく、労働力としての移民を必要とする企業も敵に廻すことになる。ブキャナンの当時と同様に、矛先は自らの足下を向いているのである。

結局のところ、共和党が新しいポピュリズムの理論武装を見出すのは難しいというのがベイナートの結論である。最近の共和党候補の議論をみていると、レーガン回帰論が盛んなように、再び攻撃の矛先が「政府」に向かっているようにも思える。もっとも理論構築の巧拙はさておき、米国民にこうした議論を受け入れる素地があるかどうかは、切り離して考えなければならない問題だろう。

2007/10/15

Lazy Obama ?

民主党の予備選挙では、ヒラリーの優位が確立されてきたとの見方が優勢である。オバマの伸び悩みの一因は、政策面での「怠惰さ」にあるのかもしれない。

ワシントン・エクザミナーのビル・サモンが最近発表した「The Evangelical President」は、ブッシュ大統領が民主党の候補者としてヒラリーが有力だと考えているという記述が大きく報道されている。しかし、個人的に興味深かったのは、オバマに関するホワイトハウスの匿名上級スタッフの評価である(Sammon, Bill, “President predicts GOP will keep control of White House after 'tough race' in 2008”, Washington Examiner, September 23, 2007)。このスタッフは、オバマが大統領になるために必要な知的な厳格さを備えているにもかかわらず、安易に自分の魅力に頼っていると指摘する。オバマの有権者への態度には横柄さが感じられるが、それは「これくらいのことを言っておけば大丈夫だろう」という意識の表れであり、知的な怠惰さを象徴しているというのである。例えばオバマは、著書Audacity of Hopeのなかで、「政府のプログラムは宣伝どおりに機能しているわけではない」と書いているが、あるテレビの番組でたずねられた時には、なかなかその具体例を示せなかったという。ようやくメディケアや眼ディケイドの請求が電子的に行われていないと答えてはみたものの、実際にはこれらは既にほとんど電子化されていた。同スタッフは、「オバマは大統領になるために必要な厳しい下準備を怠っている。もう手遅れだ」と手厳しい。

このページでも、オバマが安易に「新しい政治」「ワシントンのロビイストとの決別」「党派対立の克服」といった議論に頼りがちだという印象を何度か指摘してきた。オバマ陣営にとっては、これも大事な戦力なのだろうとは思うが、気になり始めたら目に付くものである。例えば最近では、オバマは民主党の医療保険改革案について、ヒラリーとエドワーズ、そして自分の改革案の内容は、95%が共通していると発言している(Davis, Teddy, “Obama Says Health Plan is '95% the Same' as Dem Rivals”, ABC News, October 9, 2007)。だからこそ重要なのは、「保険会社や製薬会社を乗り越えられるのは誰か」だというのが、オバマの主張である。しかし、既に触れたように、3人の改革案の中では、オバマ案だけが「義務付け」を含んでおらず、皆保険制が担保されていない。その違いが5%か20%かはともかく、自分だけが明らかに違う提案をしているにもかかわらず、そこを素通りして「反ワシントン・ロビイスト」に議論を持ち込むのは不親切である。

ワシントン・ポストのルース・マーカスも、オバマの政策面での実力に疑問を呈している(Marcus, Ruth, “The Two Obamas”, Washington Post, September 26, 2007)。マーカスは、オバマは労働組合を前に行った演説ではお決まりのポイントをきれいにそろえて大変な盛り上がりを演出できたが、ブルッキングス研究所で行った税制改革に関する演説は全く盛り上がらなかったと指摘する。オバマの提案は伝統的な民主党の手法に則って、既に低い中間層の税負担をさらに引き下げたり、財政上厚遇されている高齢者にさらに減税を行うといった内容に過ぎず、本当に必要なAMT改革や医療保険に関する抜本的な税制改革には一切言及が無かった。著書の中でオバマは、財政再建のためには投資の先送りや困窮する米国民に対する救済策の湯銭順位を再考する必要があると指摘しているが、2004年のケリー案の10年分の減税を1年で行うという今回の提案の中には、優先順位が熟考された形跡は無い。高齢者が多いアイオワ州の現状を意識したのかもしれないが、税制改革案の中にはお得意の「Audacity(大胆さ)」はどこにもないというのが、ルーカスのオバマ評である。

オバマの税制改革案に関しては、ワシントン・ポストの社説も厳しい(editorial, “Mr. Obama's Cookie Jar”, Washington Post, September 25, 2007)。この提案は「クッキーをどうぞ」と差し出すようなもの。民主党の予備選挙関係者には心地よく聞こえるだろうから、利口な政治的提案とはいえるのかもしれないが、利口な政策とは言いがたい。むしろエドワーズの税制改革案の方が、低コストでありながら必要な国民にターゲットが絞り込まれている。

アドバイザーという点では、オバマは十分すぎるほどの政策面でのインプットを受けられるはずである。オバマのもとには、民主党のエスタブリッシュメントとも考え方の近い有力な識者が集結している。外交政策だけで200人、国内政策では500人以上の指揮者がオバマ陣営と何らかのかかわりをもっているといわれる。予備選挙段階とは思えないその充実振りは、ほとんど本選挙に臨む候補者のそれである(Dorning, Mike, “Obama's policy team loaded with all-stars”, Chicago Tribune, September 17, 2007)。

ボストン・フェニックスのスティーブン・スタークは、オバマは自分が「変化」を実現できる人間だと繰り返すばかりで、その「変化」が国をどこに導くかというビジョンを提示できていないと指摘する(Stark, Steven, “Obama Needs to Get Over Himself”, Real Clear Politics, October 11, 2007)。大統領にはさまざまな提案や議論の中から、国が進むべき方向性を見据えて、適切な政策を選び出していく能力が要求される。現時点での政策提案のあり方を通じて、こうした意味でのオバマの実力が問われているのかもしれない。

2007/10/13

共和党の経済政策:Attack of the Second Tire

共和党有力候補の経済政策に「アナクロニズム」が指摘される中で、やや違った趣向の攻め方をしているのが、二番低下の候補者達である。実際に、ニューヨーク・タイムスのデビッド・レオンハートなどは、10月9日の経済問題をテーマにした討論会を題材に、米国民の経済的な不安感に触れるか否かが、有力候補とそれ以外の候補者を分ける明確なラインになっていると指摘する(Leonhards, David, "Atop G.O.P., It’s Always Sunny", New York Times, October 10, 2007)。

レオンハートは、ロン・ポールの「多くの米国民はリセッションの只中にいる」との発言や、ハッカビーが次世代の暮らし向きに不安を持つ米国民が多いと指摘した点をとりあげる。これに対して有力候補者は総じて「ばら色」の経済認識を披瀝した。トンプソンが「リセッションに向かっているとする理由は見当たらない」と述べたかと思えば、ロムニーは討論会が行われたミシガンの窮状を「一つの州だけのリセッション」と呼び、ジュリアーニはファンドの隆盛について「市場というのはすばらしい」と分析して見せた。ヒラリーのバス・ツアーに象徴されるように、民主党が国民の経済的不安感に焦点を当てているのとは対照的である。

こうした中で、経済政策の中身という点で識者の評価を集めているのが、ハッカビーである。民主党系のメディアであるDemocratic Strategistのエド・キルゴアは、討論会を違った方向性に導く可能性があったのは、格差についても語ろうとしたハッカビーだったと指摘する(Kilgore, Ed, "Anachronisms", The Democratis Strategist, October 9, 2007)。実際にハッカビーは、現在米議会をにぎわせているSCHIPについても、ブッシュ大統領による拒否権発動を明確に支持しなかった唯一の候補だった(Marcus, Ruth, “Between a Veto and the Base”, Washington Post, October 10, 2007)。ワシントン・ポストのスティーブン・パールスタインは、ハッカビーを確かな保守の信念に支えられながら、知性と正直さ、論点に関する知識と現実的な対応策を兼ね備えていると評する(Pearlstein, Steven, "Two Hours, Nine Candidates, and Almost Nothing New", Washington Post, October 10, 2007)。知名度よりも政策が重要なのであれば、共和党の予備選挙を盛り上げるのはトンプソンではなくハッカビーだというのが彼の見立てである。

レオンハートが注目するのは、かつては有力候補だったマケインである。マケインは討論会に先立つ講演会で、「中間層の不安」に対する共和党からの対応策を提示したという。そこでマケインは、「グローバリゼーションはチャンスだが、自動的に全ての米国民の利益になるわけではない」との認識を示し、失業保険の改革などを通じた長期失業者対策の必要性を指摘した。また、公教育への競争原理の導入や医療保険制度改革案の提示も約束した。こうしたマケインの方向性についてレオンハートは、減税一辺倒の従来の共和党の政策と、「大きな政府」に傾斜する民主党の政策の中間点を探していると指摘する。

印象的なのは、マケインのアドバイザーであるホルツィーキン前CBO局長のコメントである。ホルツィーキンは、「われわれはもはや政府を消滅させようとする政党として戦っているわけではない。ただ、政府をどのように使うかという点で一致していないだけだ」と指摘する。レオンハートは、こうしたマケイン陣営の議論が注目を浴びるようになれば、例えばロムニーなども持論の貯蓄優遇策などをもっと前面に押し出すようになるのではないかと指摘する。

現時点では、こうした提案を行っている候補者は、必ずしも有力候補とは言いがたい。もちろん、保守層にアピールしなければならない予備選挙が終われば、共和党の有力候補者もトーンを修正してくる可能性はある。そうでなければ、本選挙での経済政策を巡る両党の議論は、なかなかかみ合いそうにない。

ゴア降臨? : Don't Worry Hillary, None of This is Happend Yet.

ゴアが本当にノーベル賞をとってしまった。「ゴア出馬待望論」がしばらくは盛んに報じられるに違いない。民主党ではヒラリーが独走態勢を固めつつあるとの見方も強くなっているだけに、「ヒラリーが恐れるのはゴアの出馬だけ」といったトーンの報道も出てきやすいだろう。

しかし、常識的に考えればここでゴアが出馬する可能性はそれほど高くない。選挙戦はかなり進んでしまっているし、ゴアにはまだ組織も戦略も無い。急造でも戦えるといっても、やや時間が立ち過ぎだろう。だいたい、折角の復活を選挙への逆戻りで汚すリスクを犯す必要があるだろうか。

それよりも、ヒラリーが恐れるべきは、ゴアがキング・メーカーになることではないだろうか。待望論が高まる中で、ゴアは政策面での主張を鮮明にし、民主党の方向性に影響を与えようとするだろう。その延長線上に、誰がゴアの支持を取り付けるのかという議論が出てくる。予備選投票日が近づいたところで、ヒラリーの対立候補を支持するとゴアが宣言する。そのインパクトは小さくないかも知れない。

ヒラリーとゴアの関係は果たしてどうなのか。ゴアはクリントン時代と距離を置く選挙戦を展開して、クリントン前大統領の逆鱗に触れた。ヒラリーはクリントン時代の栄光をそのまま飲み込んだ選挙戦を展開している。受賞発表当日のヒラリー選対のホームページには、ゴアを祝福するメッセージが踊っていた。

もちろん民主党を割るのは本位ではないとして、ゴアが予備選挙での支持者表明を行わない可能性もあるだろう。他方で、ゴアの政治センスには不可解な部分も少なくない。前回の予備選挙では、ゴアは押し詰まってきてからディーン支持を表明した。その辺りからディーンの調子がおかしくなったような気がするのだが、記憶違いだろうか。

それはさておき、ついにゴアに先を越されてしまったクリントン前大統領の思いはいかばかりだろうか...

2007/10/12

トンプソンの経済政策:What Me Worry?

トンプソンの経済政策にちょっとした関心が集まっている。遅れて参戦した同候補が、少しづつ経済政策の内容を明らかにし始めたからだ。もっともその速度は極端なまでに「少しづつ」であり、民主党ほどの詳細さは望めない。それどころか、他の共和党の有力候補者も含めて、国民感覚との乖離が指摘されているのが現状である。

各紙がトンプソンの経済政策を探る素材の一つにしているのが、10月5日にAmericans for Prosperity Foundationで行われた講演である。といっても、全文を読んでもそれほどの内容があるわけではない。具体的な提案は以下の二つである。

第一は、税制について。もちろん、減税の重要性を説いている点は他の共和党候補と変わらない。ブッシュ減税の生みの親であるローレンス・リンゼーがアドバイザーであることを考えても、違和感はないところだ。むしろ目を惹くのは、法人税の引き下げが具体的に提案されている点である。トンプソンは、米国は94年以降に法人税を下げていない二つの国の一つであるとして、その最高税率を現在の35%から28%にまで下げるべきだと述べている(Shatz, Amy, "Thompson Turns to Taxes", Wall Street Journal, October 8, 2007)。第二は、公的年金改革について。トンプソンは給付額の算定基準を現在の賃金上昇率からインフレ率に変更すれば、向こう75年間の年金財政の問題は解決できるだろうと主張している(Talev, Margaret, "Thompson proposes slowing growth of Social Security benefits", McClatchy Newspapers, October 5, 2007 )。

いずれもサラッと触れられているだけだが、もう少し説明が必要だろう。まず法人税減税については、ロムニーやジュリアーニも賛同はしているが、具体的な税率までは示していないように思われる。またリンゼーは、輸出入の際の課税のあり方について、国境での調整が可能になるような方向での改革を示唆している(Schatz, ibid)。現在のWTOルールでは、EUのVATのような間接税は国境調整(輸出免税)が可能だが、米国の法人税のような直接税はこれが禁止されている。リンゼーは税の取り扱いを統一するような国際ルールの改正が望ましいとしながらも、それが無理なのであれば、米国が同じ土俵に上がる必要があるとしている。

次に公的年金だが、給付削減を正面から提案したというのは、それなりに大胆な行動だといえる。トンプソンが言うように、インフレ率調整への変更が実現すれば目下の年金問題は雲散霧消してしまう訳だが、給付額の水準は現行よりも50%以上少なくなる可能性がある(Talev, ibid)。これを補填するための民間貯蓄増進策などには言及がなく、いわば米国政治の「第三のレール」に思い切り抵触している。ちなみに、トンプソンの発言には、所得水準によってインフレ率との連動率を変えるという、ブッシュ政権も検討したProgressive Indexingを想起させるような部分もあるが、詳細は不詳である(Beaumont, Thomas, "Thompson open to changes in benefits to curb spending", Des Moines Register, October 3, 2007)。

トンプソンはもう一つの大きな義務的経費であるメディケアについても、給付水準の見直しをほのめかしている(Schatz, ibid)。まずメディケア本体については、所得水準によって給付内容に濃淡をつけるという考えがあるようだ。また、処方薬代保険には極めて批判的で、制度廃止の可能性も排除していない。

トンプソンの経済政策は、読み込んでいけばそれなりに大胆な内容である。しかし、演説を読んだ最初の印象は、何とも変わらない共和党らしい提案だということである。そこには、中間層の経済的な不安や格差の拡大、グローバリゼーションの負の側面といった問題意識は微塵も感じられない。あるのは、減税・歳出削減・小さな政府である。トンプソンの演説は、おそらく共和党の候補者ということであれば、8年前でも8年後でも通用する。ブッシュ大統領が同じ演説を行っても違和感はないだろう。むしろ年金給付金をバッサリと切り捨てる辺りは、ブッシュ政権よりも先祖帰りしている感がある。

こうした経済政策における不変性、言い換えれば「アナクロニズム」は、共和党の有力候補者にある程度共通している。10月9日に行われた、経済問題を主題にした討論会が好例である。ニューヨーク・タイムスのデビッド・レオンハートは、ミシガンという全米でも経済状況の特に悪い地域での討論会にもかかわらず、共和党候補者は米国人の経済的な不安感に触れようとせずに、減税・財政規律・規制緩和・自由貿易といった、数十年に亘って共和党が主張してきたのと何ら変わりのない経済政策を繰り返したとあきれる(Leonhards, David, "Atop G.O.P., It’s Always Sunny", New York Times, October 10, 2007)。ワシントン・ポストのスティーブン・パールスタインも「9人の候補者による2時間の討論会にはほとんど何も目新しいことはなかった」と切り捨てる(Pearlstein, Steven, "Two Hours, Nine Candidates, and Almost Nothing New", Washington Post, October 10, 2007)。さらに民主党系のメディアであるDemocratic Strategistのエド・キルゴアは、今回の討論会での議論は20年前なら当たり前だと受け止められていたような内容かもしれないと皮肉る。キルゴアは、一部の候補者による中国批判でさえ、中国を日本に置き換えれば20年前でも違和感はなかっただろうとまで指摘している(Kilgore, Ed, "Anachronisms", The Democratis Strategist, October 9, 2007)。

トンプソンも例外ではない。ニューヨークタイムスの社説は、「共和党の討論会をみていると、少なくとも有力な候補者達は別の宇宙に住んでいるかのように思われた」と指摘、それを何よりも印象付けたのが、経済を「ばら色だ」と断言したトンプソンだと書いている(editorial, "What, Me Worry?", New York Times, October 12, 2007)。同じくニューヨーク・タイムスのゲイル・コリンズも、トンプソンの討論会での発言を引用しながら、ミシガン州民の苦境にシンパシーを見せなかった点を疑問視する(Collins, Gail, "Calvin Coolidge Redux", New York Times, October 11, 2007)。コリンズは、米国民は富める者を敬う傾向にあるが、それも、どんなに恵まれていても一般国民の感情を理解していることが伝わってくるのが条件だと指摘する。これに失敗したのが2004年のケリーだが、少なくともケリーは「庶民的だから」という理由で候補に選ばれたわけではない。しかしトンプソンは、"Gucci-wearing, Lincoln-driving, Perrier-drinking, Grey Poupon-spreading millionaire Washington special interest lobbyist"という批判を封じるために、ピックアップトラックで州内を遊説するとうい仕掛けで、庶民的な魅力をアピールして上院議員になったはずだ。そんな部分がないトンプソンにどんな意味があるのだろう?

いくらメイン・ストリーム・メディアが左よりだといっても、ずいぶん強力な批判である。それでも共和党流の経済政策が選ばれるとするならば、米国の「小さな政府」志向はかなりの筋金入りと見ても良いのかもしれない。

ヒラリーのミス・ステップとKIDS accountの不運

ヒラリーによる貯蓄増進策発表の裏側で、ひっそりと消えていった提案がある。「赤ちゃん債(baby bonds)」と呼ばれる構想である。

ことの発端は、9月後半の議会ブラック・コーカス会合でのヒラリーの発言にある。ここでヒラリーは、生まれてきた子どもに5000ドル相当の債券を発行するというアイディアを提示した。成長に連れて元手となる資金が増えていけば、将来的に大学関連の学費にしたり、住宅購入の頭金にしたりできる。黒人の大きな問題は金融資産へのアクセスであり、「赤ちゃん債」は生涯に亘る貯蓄や富の増進の足掛かりになるというのが、ヒラリーの主張だった。

ところがヒラリーは、間もなくこの提案から距離を置き始める。まずヒラリーは、「単なるアイディアを提示しただけ。議論を期待している」と発言。10月8日のインタビューでは、「他にも優先順位の高い課題があるので、この構想は選挙期間中には提案しないだろう。恐らくは後回しだ」と明言してしまった(Memmott, Mark, "In her own words: Clinton calls 'baby bonds' a 'back-burner' idea", USA Today, October 9, 2007)。

ヒラリーが躊躇した背景には、共和党陣営が典型的な「ばらまき」だとして、即座に攻撃を開始したという事情がある。例えばジュリアーニは、「社会主義者の提案だ」と噛みついた。世論調査でも6割が反対を表明したという。ヒラリー陣営にとっての初めての大失敗であり、中道派としての彼女のイメージは傷付き、本選挙に致命的な影響が及ぶという意見もあったほどだ(Hallow, Ralph Z., "GOP hits Hillary's 'baby bonds'", Washington Times, October 9, 2007)。

有り難くない余波を被ってしまったのが、出生時からの資産構築の重要性を訴え続けてきたグループである。実は欧米では、現代社会での成功には基盤となる資産の構築が重要であり、幼少期からの資産構築を公的に支援する必要があるという議論が綿々と続いてきた。現在の米議会にも、KIDS accountという名称のアカウントを新設し、出生時の一人当たり500ドルの補助金と、中位所得以下の家庭に対する自己拠出額に応じた補助金の追加的な支給を行なうという法案(ASPIRE act)が、超党派の議員によって提案されている。上院ではヒラリーと同じくニューヨーク選出のシューマー議員が賛同しており、かつてはあの(?)デビッド・ブルックスが、「オーナーシップ社会構想の要素を兼ね備えながらも広範な支持を得られる提案」だと推奨したこともある(Brooks, David, "Mr. President, Let's Share the Wealth", New York Times, February 8, 2005)。因みに英国にも似たような制度(Child Trust Fund Account)があるが、もともとは米国の研究者からもらったアイディアを、英国が先行して実現してしまったものである。

「赤ちゃん債」への支持をトーンダウンする過程で、ヒラリー陣営はそもそも念頭に置いていたのはKIDS accountだったかのような発言を行なっている(Calmes, Jackie, "Clinton Has a New Bus, but No 'Baby Bonds'", Wall Street Journal, October 5, 2007)。結果的には「赤ちゃん債」騒動に巻き込まれて、KIDS accountさえもが後回しにされてしまったような格好である。

世界的に格差問題がいわれるなかで、選挙戦の余波でこうした有望な提案が葬り去られてしまうとすれば、極めて不幸な成り行きだと言わざるを得ない。自分としても、本業での調査を含めて、サポートしてみようかと考えているところである。

2007/10/11

ヒラリーの中間層対策:Yesterday’s News was Pretty Good

今週ヒラリーは、アイオワとニューハンプシャーを舞台にしたバス・ツアーを敢行し、「中間層の再興」をテーマに、一連の経済政策を「21世紀の経済への青写真」として発表した。パッケージの中身は既に発表されていたものが多く、新しいのは学費支援、サブプライム関連の追加策、そして昨日取り上げた貯蓄増進策程度だが、取り敢えずそのラインナップを紹介しておこう。

1.イノベーションの力で高賃金雇用を生み出す

研究のために500億ドル規模のStrategic Energy Fundを新設。石油業界は自前で代替エネルギーの開発を進めるか、同ファンドに資金援助を行なうかを選択する。ファンドは研究支援だけでなく、オフィス・住居の省エネ化や、ガソリン・スタンドのE85対応工事に対する優遇税制や、バイオ燃料の商用化に関する債務保証などを行なう。

2.労働者の力を強化して、全ての米国人が公平な貢献を行うようにする

労組結成手続きを簡素化する。

通商協定の着実な実施を確保するために、USTRに通商執行官を設け、関連スタッフを倍増させる。

通商による失業者の救済策であるTAAを改革する。具体的には、サービス業や移転先との自由貿易協定などの有無にかかわらず海外移転した企業の労働者を対象に加え、職業訓練用の予算を4.4億ドルに倍増。失業期間中の医療保険費用を補助するHCTCについても、税額控除の水準を保険料の65%から90%に引き上げるなどの改革を行なう。

税制に公正さを取り戻す。高所得層の所得税率を90年代の水準に戻す。ファンド・マネージャーに対する不当な優遇措置を廃止する。中間層向けの減税は延長し、AMTを改革する。

3.一生懸命働いて責任を果たした国民には、先に進むためのツールを国が提供するという、基本的な契約を再建する

奨学金や優遇税制の改革によって、資金面で大学に通い易くする。

全ての国民に安価で質の高い医療保険を保証する(詳細は別に譲る)。

住宅問題に正面から取り組む。まず、立ち退き対策として、GSEなどを使った"Save Our Homes"プログラムを2年間の期限付きで実施する。具体的にはGSEのポートフォリオ上の規制を緩和し、700億ドル規模のモーゲージ購入能力を生み出す。また、州によるモーゲージ歳入債の起債基準を緩和し、リファイナンス用モーゲージの財源として利用できるようにすると同時に、起債上限を約25%(25億ドル相当)引き上げる。そして、責任感のある借り手がモーゲージにアクセスできるようにするために、"Realizing the Dream"プログラムを実施する。具体的には地域の住宅コストに応じてGSEが購入できるローンの上限を一時的に引き上げ、即座に流動性を供給させる。さらに、立ち退き救済法を制定し、立ち退きに関するコンサルタントのスタンダードを定めると同時に、不正摘発のための補助金を州政府に提供する。

退職後の保障を改善するために貯蓄増進策を講じる。

4.財政規律を回復する

90年代の財政ルール(PAYGO原則)を復活させ、均衡財政・財政黒字を目指す。

一読して気がつくのは「回復する」「取り戻す」といった表現が目立つことだ。米国の選挙では将来指向のメッセージが求められるというのが通説だが、「昨日のニュースは良いニュースだ」というクリントン前大統領の発言に、ヒラリー陣営の開き直りを感じさせる。

もっとも「取り戻す」ことが、すなわちクリントン政権への全面回帰を意味しているわけではない。例えばヒラリーは、NAFTAの「再評価と調整」の必要性や、通商交渉の「一時停止」論を再び持ち出している(Page, Susan, "Clinton seeks to re-evaluate NAFTA", USA Today, October 8, 2007)。この問題には改めて触れる機会があると思うが、レトリックと実際の乖離には、くれぐれも注意する必要があるだろう。

2007/10/10

ヒラリーの貯蓄増進策と公的年金改革の今後

10月9日にヒラリーが、老後に向けた貯蓄の促進案を発表した。401(k)タイプの確定拠出型年金を全国民に普及させるべく、年間250億ドル規模の優遇税制を導入するというのが骨子である。米国では21~64歳の勤労者の40%超が401(k)に加入している。96年の34%よりは増加しているが、近年ではそのペースは鈍化しているという(Calmes, Jackie, "Clinton Outlines Retirement Proposals", Wall Street Journal, October 9, 2007)。

ヒラリーの提案には、二つの柱がある。第一は、勤労者の貯蓄に対する優遇税制である。具体的には、ヒラリー案の下では、401(k)型の年金貯蓄に対して連邦政府が貯蓄額に応じた税額控除を提供する。その上限は、年収6万ドルまでの家庭については最初の1000ドルについて同額、6~10万ドルについては半額とされ、それ以上の家庭については段階的に補助の比率が低下する。共和党陣営からは、「増税につながる浪費だ」との批判が聞かれるが、ヒラリーの提案は(他の税目の増税でファイナンスされるとはいえ)、租税特別措置を利用した減税である。租税特別措置は共和党も利用している手段であり、これを「歳出」だと定義してしまえば、共和党の減税路線にも論旨が通らない部分がでてきかねない。

第二は、American Retirement Accountの導入である。この口座は、現在401(k)プランを提供されていない勤労者などを念頭に置いた新しい制度であり、年間5000ドルまでを課税繰り延べベースで積み立てられる。当然のことながら、最初の1000ドルは前述の税額控除の対象となる。勤労者が新設の税額控除を受けるには、既存の401(k)プランを維持しても良いし、American Retirement Accountを開設しても良いことになる。口座の運用は民間企業が行なうため、公的部門の拡大にはつながらないと主張されている。

この他にも同アカウントには、長期間の失業に直面した場合には、残高の10~15%を罰則無しで引き出せるという特徴がある。住宅の購入や高等教育などの「生活上の重大な投資」のためであれば、やはり罰則無しで引き出せるというのは、現行のIRAと同様である。また、低所得層の参加を促すために、フードスタンプなどの公的給付の受給資格を審査する際に、退職後向けの貯蓄を「資産評価」の対象から外すという提案もある。これまで低所得層には、貯蓄すると公的給付を受けられなくなるというジレンマがあったからだ。

気になる財源については、ヒラリーはブッシュ減税のうち相続税に関する部分を、09年の水準で凍結するよう提案している。優遇税制の規模は参加者数に左右されるが、ヒラリー陣営は年間200~250億ドルを見込んでいる。これに対して相続税の凍結は、予定通りに相続税を廃止した場合と比較して、10年間で4000億ドル規模の増収になる。

実はヒラリーの提案に先立って、民主党のエマニュエル下院議員も、似たような提案を行なっている(Emanuel, Rahm, "Supplementing Social Security", Wall Street Journal, Septmber 13, 2007)。具体的には、労使が給与の1%を非課税扱いで拠出するUniversal Savings Accountを設置するという提案である。ヒラリー案と同様に、口座の運用は民間企業が担当する。また、加入者を増やすために、原則として企業は従業員を自動的に同口座に参加させる。こうした自動加入のシステムは、近年401(k)プランに普及し始めており、貯蓄増進の効果が認められている。因みにヒラリー案にも、似たような内容が含まれている。

細部の違いはさておき、ヒラリー案とエマニュエル案の違いで見逃せないのは、公的年金改革との結び付け方である。具体的には、エマニュエルは、個人の貯蓄を増進し、老後に対する不安を和らげることが、公的年金改革の前提になると位置づけている。公的年金改革自体については、両者共に安全な老後のための「聖域」と位置付けており、その強化を主張しているが、エマニュエルの方が「強化」の内容には含みがある印象だ。そもそもこうした形式での個人貯蓄の増進は、クリントン政権が公的年金改革を念頭に置いていた時期に、これを補完するパーツとして検討されていた経緯がある(Calmes, ibid)。その点では、エマニュエルによる提示の仕方の方が、オリジナルのクリントン政権の論理に近い。

公的年金改革との関連では、民主党サイドからの一連の提案は、公的年金の外側に「個人勘定(マーケットなどで運用される個人管理の積立口座)」を設けるのとほぼ同じ意味合いがある。ブッシュ政権が提唱していた「個人勘定」は、公的年金の一部を置き換えて設置すべきだとされていた(carve out)。しかし、公的年金の外側に個人勘定を設けるという対案(add on)は、当時から超党派の賛同を得られる可能性が指摘されていた。実際に、個人勘定の産みの親とでもいうべき存在であるフェルドシュタイン・ハーバード大教授は、税でファイナンスする公的年金をマーケットで運用する個人勘定でサポートするという点で、ブッシュ大統領の提案とエマニュエル案の距離は近いとして、民主党と共和党の間で妥協が可能になるかもしれないと指摘している(Feldstein, Martin, "Social Secuirty Compromise", Wall Street Journal, October 8, 2007)。

もちろん、個人勘定が公的年金をサポートするといっても、それが公的年金の給付削減容認を意味するかどうかという点については、民主党と共和党の意見は食い違う可能性が高い。また、医療保険の問題と同様に、公的年金を巡る議論には、双方の支持基盤との関係に関わってくるという難しさがある。しかし、民主党政権が誕生した場合には、取り敢えずの入口として、公的年金の議論とは一旦切り離した形で、add on型の個人勘定に進むという方向性は、十分に考えられるのではないだろうか。

2007/10/09

オバマ経験不足論はブーマー世代の仕業?

経験の浅さという点では、候補者の間にそれほどの違いが見られないのに、なぜオバマの未熟さが争点になるのか。一つの鍵は、ベビーブーマーにあるのかもしれない。ボストン・グローブのエレン・グッドマンの指摘である(Goodman, Ellen, "Junior envy", Boston Globe, January 26, 2007)。

確かにオバマは相対的には若いが、一般的な社会常識でいえば、46歳は若者とは言い難い。むしろ、自分は若くないということを感じさせられる年頃である。モーツァルトは30台で死んでしまったし、アインシュタインは36歳で相対性理論を発表した。政治の世界においても、ルーズベルトは42歳で大統領になっており、オバマは史上最年少の大統領にはなり得ない。

むしろオバマの「若さ」がクローズアップされるのは、有権者が高齢化しているのではないか。なかでもブーマー世代の高齢化が、オバマにとっては逆風になっている可能性がある。1960年には米国の平均年齢は29歳だったが、現在は36歳である。そして発言力の大きいベビーブーマー世代は、60代に差し掛かっている。20歳代の頃は「30代以上は信用できない」としていたブーマー世代が、今や50代以下は信用できないと言い始めているのではないか。

ブーマー世代は、いつまでも若さを失わない世代といわれる。その副作用は、次の世代をいつまでも若輩もの扱いしがちで、「世代交代に後ろ向きなことにある。言い換えれば、物事を仕切るのは自分たちの世代だという自負がいまだに強いのが、ブーマー世代なのである。

クリントン以来、米国ではブーマー世代の大統領が16年続いている。ブーマー世代に属するのが18年であるから、そろそろ世代交代となってもおかしくはない。ブーマー世代の最後尾(もしくはジョーンズ世代)のオバマであれば、タイミング的には違和感がないという議論も可能だろう。しかし現実の選挙戦は、そのようには展開していない。いかに世代が松明を受け継いでいくかは、今後の米国政治の隠された論点なのかもしれない。

2007/10/07

経験不足の候補者たちが多い不思議

ヒラリーとオバマの戦いは、「経験」と「変化」の勝負だといわれている。正確に言えば、少なくともオバマ陣営はそのような構図に持ち込もうとしている。しかし歴史的な水準に照らし合わせれば、今回の予備選挙における「有力候補者」は、いずれも「経験不足」だというい方も可能である。2007年7月に、ニューヨークタイムス・マガジンにマット・バイが寄稿した小文は次のように指摘している(Bai, Matt, "What Does It Take?", New York Times, July 15, 2007)。

ヒラリー、オバマ、エドワーズ、ジュリアーニ、ロムニー、トンプソンといった有力候補者を合わせても、州政府レベルでの選挙で勝った回数は6回に過ぎず、通算した任期も28年にしかならない。トップレベルの公職期間が最も長いのはジュリアーニだが、それも市長どまり。これまでに市長から大統領になった例は無い。これに比較して、バイデンやリチャードソン、マケインといった公職経験の長い候補者は、予備選挙で苦戦を強いられているのが現実である。

こうした選挙戦の展開は、米国の歴史では例外的だ。俳優出身であることがクローズアップされがちなレーガンでも、州知事を2期務めてから、69歳でようやく大統領にたどり着いた。ブッシュの父親は、外交官、CIA長官を経て、副大統領を2期務めた。若くして大統領になったクリントンでも、その前にはアーカンソー州知事を実に5期も経験している。例外はカーターくらだった。ところが、現在のブッシュ大統領辺りから、経験の浅い大統領というトレンドが始まったようにみえる。州知事を一期経験しただけのブッシュ大統領は、最近24年間でもっとも経験の浅い大統領である。

バイは、その背景として3つの理由をあげる。第一に、インターネットの発展によって、社会全体として「専門家」の優位性が低下いてきた。誰でもさまざまな情報が容易に入手できるようになり、一般大衆が政治評論の世界にも参入できるようになった。むしろ「経験」という言葉は、いわゆる「専門家」が自らの領域を一般大衆から守るために使う都合の良い言い回しになってきた。第二に、政治的な経験の豊富さは、必ずしも現状打破につながらない。オバマの議論にも共通するが、イデオロギー対立の中で育ってきた政治家は、妥協の術を知らない。第三に、一般の労働者も一生のあいだに何度も職業を変えるようになっており、政治家だけを続けている人間はかえって怪しい。

もっともバイは、政治的な経験の浅さが必ずしもプラスになるとは考えていない。政治というのは企業経営のように簡単に割り切れるものではない。MBAをもつ初の大統領であるブッシュの失敗をみれば、一目瞭然だろう。どこで妥協して、どこで信念を貫くのか。そいった勘所は、経験を積んで初めて身につくものだとバイは指摘する。

この「妥協するポイント」という点については、再び医療保険改革に臨むヒラリーが、前回の失敗を学んでいるかどうかという観点でも指摘されている論点である。これについては、また改めて触れることにしたい。

マット・バイは、ニューヨークタイムスマガジンを中心に活動しているお気に入りの記者である。近著のThe Argumentも、民主党の近況を描いて興味深い。名前を覚えておいて損はないと思いますよ。

2007/10/05

Dazed And Confused : 詳細な医療保険改革案の罪

今週末は最初の引越しである。勢い資料の整理を迫られているのだが、いやはや資料を捨てるのは辛いですね。これであれをやる筈だったとか、いろいろ考えてしまう。

というわけで(?)、しばらくは折りに触れて、取り上げた損ねた報道を備忘録的に記す機会が多くなりそうである。それはそれで、新しい発見もあり面白い。

今回は、医療保険改革の詳細を示すことの是非に関する議論である。筆者のマーク・シュミットは、2000年の大統領選挙で民主党のブラッドレー候補の陣営に属していた。その経験からのアドバイスは、「詳細な改革案は示すべきではない」というものだ(Schmitt, Mark, "Too Much Information", New York Times, July 24, 2007)。詳細な政策提案は、細部だけを取り上げた候補者批判に使われる以外は、ほとんど関心を集めることがない。2000年の選挙でブラッドレーは、対立候補のゴアに負けない詳細な改革案を提示したが、ゴア陣営による技術的な細かい批判に切り刻まれてしまった。結局のところ、ブラッドレーのためにも、国民皆保険制実現のためにもならなかったというのである。

シュミットは2つの理由をあげて、予備選期間中の提案は候補者が大統領になった後に実現できる改革とは全く関係がないと指摘する。第一に、この頃の提案は、新しい大統領が誕生する頃には忘れ去られてしまう。1992年の大統領選挙に出馬したボブ・ケリー上院議員は、予備選挙中には左よりの提案をしていた(シングル・ペイヤー)にもかかわらず、実際に当選したクリントン政権がそれよりも中道寄りの提案(もう一人の候補だったソンガス案に近い)を発表したところ、今度は右側からこの提案を批判したという。第二に、大統領は独断で政策を実現する権限がない。実際の政策を決定するに当たっては、議会での審議が必要である。さらにシュミットは、選挙期間中に若輩のアドバイザーが徹夜でピザを食べながら作ったような改革案が、連邦政府・議会が総力を挙げて検討した改革案にかなうわけがないと指摘する。

シュミットは、民主党の支持者はプラン自体ではなく、「プランという考え」に取り付かれており、プランが詳細であるほど、その候補者が本気であると思い込みがちだと指摘する。しかし、この時点での改革案に実現の可能性がない以上、支持者に必要なのは、候補者のキャラクターをしるための手がかりだけだ。したがって候補者は、改革の原則とその理由、そして基本的な目標をすめば十分だというのが、シュミットの主張である。

ヒラリーはかつて討論会で医療保険改革に触れて、「もっとも大事なのはプランではない。私達はほとんど同じようなことを提案している。大切なのは、政治的な意志があるかどうかだ」と述べている。シュミットは、このラインで十分なはずだと述べている。

もちろんこの記事が発表された後に、ヒラリーは詳細な改革案を発表した。それどころか、アイディアの無さを揶揄された共和党陣営も、それなりの改革案を発表しているのが現状である。しかし、米国の医療保険制度の実態は、多少知識がある人間でも眩暈をおこすほど複雑だ。勢い、実際の改革案の本質から離れた単純な批判の方が受け入れられやすくなる素地は十分にある。ことが「政府のあり方」のような抽象的な問題にもつながってくるからなおさらである。詳細な改革案の戦いが、本当に改革のためになるのかどうかは、選挙戦の騒乱が静まった後に初めて明らかになるのかもしれない。

2007/10/04

医療保険改革と二つの「トロイの木馬」

医療保険を巡る議論が盛んになっている。この問題は、市場原理重視の共和党と、国の役割を重視する民主党の議論が分かれる好例として取り上げられ易い。一朝一夕に片付く問題ではないが、政治的な思惑もからむだけに、少しの動きでも、将来に向けたさきがけとして神経質に取り扱われる傾向があるようだ。

2つの事例を取り上げたい。

第一は、現在議会を賑わせているSCHIPの問題である。10月3日にブッシュ大統領は、民主党議会が可決した改革案に対して、予告通り拒否権を発動した。大統領による拒否権の発動は、就任以来数えても、ようやく4回目である。

既にこのページでも取り上げたように、ブッシュ政権・共和党が議会の改革案に反対している理由の一つが、「国が運営する全国的な医療保険への第一歩である」というものである。例えばベーナー下院院内総務は、「子供のために作られたプログラムを、いまだに同制度の対象とすべき低所得の子供が残っているにもかかわらず、国が運営する医療保険制度のトライアル・バルーンに使うのは無責任だ」と述べている(Newton-Small, Jay, "Making Hay Over the Health Care Veto", Time, October 2, 2007)。

共和党がSCHIPが国営医療保険の「トロイの木馬」である根拠として指摘するのが、90年代にクリントン政権が医療保険改革を推進していた際に作成された、ある内部文書である。この文書には、国民皆保険制の導入に失敗した場合の善後策として、子どもの無保険者を無くす(Kids First)という提案が記されている。州政府を担い手とするなど、枠組み的には後のSCHIPに極めて近い。今回の民主党のSCHIP改革論も、当時の流れを汲む策略だというわけである。

当時改革を取り仕切っていたヒラリー上院議員の陣営は、この文書に基づくSCHIP批判は、二つの点で意味が無いと反論する。第一に、この文書は当時の数ある提案の一つに過ぎず、当時ヒラリーが支持していたわけでもない。第二に、そもそもヒラリーは、国が運営する全国的な医療保険制度を提案しているわけではない。むしろヒラリーの改革案は、官民の保険が共存するハイブリッドである(Kady II, Martin, "Battle of sound bites reaches health care", Politico, October 2, 2007)。

他方で、共和党型の医療保険改革のさきがけになる可能性があると指摘されているのが、先頃GMとUAWの間で合意された、退職者医療保険に関する改革である(Jenkins Jr., Holman W., "Wising Up on Health Care", Wall Street Journal, October 3, 2007)。この合意では、UAWがVEBAと呼ばれる基金を通じて退職者に医療保険を提供し、GM側はこの基金に定額の費用(350億ドル)を払い込むこととされた。この合意によって、GM側は退職者医療に関する債務を切り離し、負担額を確定できる。対するUAW側は、基金の運用や医療費の管理具合によっては、組合員に負担を求めずに制度を存続させられる可能性が出て来る。GMの退職者医療債務は510億ドル。350億ドルの元手でどこまで制度を運営するかは、UAWの腕の見せ所である。

こうした仕組みは、ブッシュ政権が個人向けに推進していたHSAに酷似している。さらに言えば、利用者にアカウントを与えて、サービスの効率的な利用へのインセンティブにしようという考え方は、「オーナーシップ社会」構想に相通じている。

もっとも、GM-UAWの取り組みがオーナーシップ構想のさきがけになるかどうかは、今後のUAWの出方にも関わってくる。例えば、GMとの合意のなかには、国民皆保険制の導入に向けて協力するという内容があるという。民主党政権の誕生も視野に入る中で、UAWにとって今回の合意は国による救済を求めるための通過点に過ぎないのかもしれない。また、基金の運営が厳しくなった場合には、GM側が追加的な費用を負担する。このようなセーフティーネットの存在は、効率化へのインセンティブを殺いでしまいかねない。

GMに先駆けてUAWがキャタピラーとの間で設立したVEBAたは、発足後6年で底を付いてしまった。GMの案件はまだ仮合意の段階だが、その行方は今後の医療保険改革論議にも少なくからぬ影響を与えそうだ。

2007/10/01

波紋を呼ぶオバマの年金改革案

第二期ブッシュ政権が大きな挫折を経験した公的年金改革だが、ここに来て民主党の各候補者の提案が明らかになってきた。日本ほどではないが、米国も高齢化が進もうとしている。最大の課題は医療保険だが、将来的には公的年金も財政バランスが崩れてくる。年金財政の健全性をいかに確保するかが問われているわけである。

焦点は財源としての社会保障税の扱い。なかでも注目を集めているのは、オバマの提案である。オバマは9月21日のQuad-City Timesへの投稿で、年金所得の課税上限を見直すべきだと主張した(Obama, Barack, "Fixed-income seniors can expect a tax cut", Quad-City Times, September 21, 2007)。同26日にニューハンプシャーで行われた民主党の討論会でも、オバマはこの提案を強調している。課税上限の見直しは、ブッシュ政権も検討したことがあるが、オバマは現在年間9万7500ドルに設定されている上限の廃止を例示しており、そうなれば実に10年間で1兆ドルの増税となる大掛かりな改革になる(Davis, Teddy, "Obama Floats Social Security Tax Hike", ABC News, Septmber 22, 2007)。エドワーズも課税上限の見直しを提案しているが、現在の上限から20万ドルまでは除外されるので、オバマ案よりは増税規模は小さい。

当然のように、オバマの提案には共和党陣営から「大増税」との批判が集まっている。医療保険改革と並んで、共和党にとって税制の問題は、「政府のあり方」を軸に民主党との違いを強調しやすいテーマである。それでなくても、年金改革は米国政治の「第三のレール」といわれ、下手に手を出すと致命的な打撃を受けるといわれる。中には、民主党が社会保障税増税を持ち出したことで、税の分野で共和党が盛り返す芽が出て来たという意見もあるほどだ(Pethokoukis, James, "Forget Clintonomics--This Is Mondalenomics", U.S. News & World Report, September 27, 2007)。

もっとも見逃せないのは、課税上限の見直しには、年金制度を擁護するリベラルな勢力からも慎重な意見が聞かれることである。公的年金が政治的に高い支持を得られているのは、誰もが負担に応じた恩恵を受けているというイメージがあるからだ。しかし、高所得層から低所得層への所得移転の性格が強くなりすぎれば、こうした幅広い支持は得られなくなりかねない。むしろ、かつての福祉制度のように、制度の縮小を求める気運が高まりかねないというわけである。オバマは税制改革案のなかで、低所得層の所得税をゼロにするとしているから、高齢者の間では二重の意味で所得移転の度合いが強くなる。

オバマの提案は、ヒラリーからの批判に応えたものだという見方がある。以前オバマは、年金改革について、「あらゆる選択肢を排除すべきではない」と発言したことがある。これに対してヒラリーは、給付削減や支給開始年齢の引き上げは解決策にはならないとして、何でも検討すべきだというオバマの立場を批判した(Calmes, Jackie, "Clinton Rules out Cuts in Social Securiy Benefit", Wall Street Journal, September 8, 2007)。何やら、独裁者と会談すべきか否かという両者の議論を彷彿とさせる。

それでは、そのヒラリーは年金改革をどう考えているのか。かつては社会保障税の累進化に与するような発言をしていたヒラリーだが、26日の討論会での発言は、「どのような選択肢も検討しない」というものだった。年金改革の具体案をどうこうする前に、一般財政の健全化を進めるのが先決だというのが、ヒラリーの立場なのである。実は米国の公的年金は現時点では黒字を計上している。その黒字を一般財政の赤字が食いつぶしているのが現状である。この一般財政による流用を止めれば、公的年金の財政事情は改善するというわけだ(Calmes, ibid)。

実はオバマも、前述の提案では一般財政の立て直しが先決だと主張している。それでも駄目な場合には、「全ての提案を議論」するべきであり、そのなかでも課税上限の見直しが有望だという論理展開である。そこまで言ってしまって、批判される危険性を犯すのか(意図しているかどうかも問題だが)、それとも、堅実な言い回しを使うのか。両候補の特色が良く現れている。

可哀相なのはリチャードソンだ。26日の討論会でリチャードソンは、本質的にはヒラリーとほぼ同じ議論を展開しているにもかかわらず、司会役に「そんな計算は成立たない」と突っ込まれまくっていた。なぜヒラリーはそのような目に会わなかったのか(少なくとも会っていないように見えるのか)。厳しいようだが、これがトップランナーと第二グループの違いなのかもしれない。